建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

新建築 2020年12月

これからの都市と郊外に向けて明治維新に敗戦とリセットが続いた75年の周期に今年が当たるというのは面白い視点。今年はリセットが起きなかったとあるが、見方を変えると水面下でじわじわ浸透する不可視なリセットが来ているのかも。もう一つ興味深いのは、帰国を余儀なくされる外国人を除いて東京への人口流入傾向は変わらないものの、都内では通勤・通学による都心と郊外の往復が激減しているという点。これを可能にしているのは間違いなくネットによるリモートワークや宅配サービスであり、人が移動する生活からモノや情報を指導させる生活にシフトしているということだ。このシフトは既存のモノの見方を反転させつつあるようだ。従来のC+neモデルではその空白故にリスクとされてきた空き家や低密度な住宅地が、むしろ余白があることでカスタマイズできるという強みを持つ存在に反転している。カスタマイズとはつまり既存の利活用でありリノベーションなわけで、人・モノ・カネを集約する道のオルタナティブになり得るのかも知れない。掲載されている作品もリノベーションがいくつかあるし、新築作品も交通機関や都市レベルから見れば改修と言える気もする。そう考えると、全ては既存のカスタマイズとみなせるのかも知れない。

ところざわサクラタウンKADOKAWA 所沢キャンパスは、郊外の生活⇄都心の労働の往復から郊外での住職近接にシフトしたプロジェクトでは最大級のものではなかろうか。これくらいの規模になるとリモートによる離散的な動きではなく生活⇄労働の往復距離を郊外だけに縮小したと理解した方が正しい気がする。パソナが本社を淡路島に移転したりと、都心から移転してきた大規模本社機能が地方や郊外の新たな中心になって、周辺の人・モノ・カネを本社⇄自宅の間で往復させるような「カスタマイズ」が始まるかも知れない。似たような動きは過去に大学でも生じ、半世紀程度を経て都心回帰するようになった。その時とは要因が大きく異なるけれど、今回はどうなるだろう。

小林古径記念美術館小林古径邸復興事業、は大田区にあった吉田五十八による邸宅を新潟の高田城公園内に移築した上で美術館を併設するという二つの「カスタマイズ」と言えるか。解体調査は途方もない労力が注がれているし、美術館も屋根の高さや勾配など既存と連続的な計画となっているし、元々は管理棟だけだったものを増築しているのがいい。ただ、長廊によって外堀からの軸線を延長する試みがなされているものの、この建物を建てることで古径邸が閉ざされてしまっている感じがする。宮本忠長は81年に学会賞。音響工学の先駆者であり佐藤総合の創始者である佐藤武夫、早稲田建築の祖である佐藤功一という流れを汲むらしい。

NIPPON・CHA!CHA!CHA!/Bridge Sprout/Fire Foodies Club/Lakeside Dancers Clubはもう少し小さなスケールの作品で、上記のような都市に挿入するエレメントというよりは都市に寄生する宿木のような存在に見える。僕たちに与える影響も、今まで見えていた見え方とは違ったモノの見方を提示するようなカスタマイズに思える。

銀座駅リニューアル京橋江戸グラン東京虎ノ門グローバルスクエア日比谷OKUROJIは大手組織事務所による設計で交通機関と密接に関わり合う建物ばかりである。交通の側から見るといずれも改修である。地下の民地をプラットフォームとするなど、注ぎ込まれている大変な労力に脱帽しかない。

第2ターミナルビル本館南側国際線施設国際線旅客ターミナルビル再拡張工事 Ⅱ区は空港の増築。空港は今後も増築が繰り返されるだろうけど、どこかの時点で当初の方針とは全く違ったものになる気がする。

日亜化学工業 横浜研究所LIX WINGビル HOSHIはガラスの外壁に映し出される虚像をカスタマイズしている。

CIC Tokyoは色々な場所が生まれていそうだが、それはセル状の室配置により方向感覚が無くなったり廊下っぽいところが無くなったりしていることだけでなく色や照明や仕上げにバリエーションが付けられていることも影響していそう。

市川市役所 第1庁舎は道路側に階段を向けた方が良かったのではなかろうか。近畿産業信用組合本店愛知学院大学 名城公園キャンパスは省エネ方面にカスタマイズさせている訳だが、石とガラスを重ね合わせるスタディを極限まで詰めたり、アトリウムは風の流れを顕在化させるデザインを徹底するとさらにポテンシャルが発揮されたと思う。

ヒューリック両国リバーセンターはカミソリ堤防をスーパー堤防に改良することで生じるGLの変化を積極的に取り込むと同時に、都市の裏側になっていた護岸を両国国技館側に接続させようとしている。都・区・民の協業は大規模組織ならではの調整力。

最後の3作品は建物単体のリノベーション。徐々にスケールが小さくなっていく編集。むさしのエコreゾートはゴミ処理場として建てられた頑丈な躯体と大きなスケールと無骨な空間が新築では作られない空間を生んでいる。対比的に外観が主な操作の対象となっているのが兜町平和第5ビル/旧第一銀行本店附属新館再生で、こちらでは外壁の既存コンクリートのみを残し、新設するものの色を揃えることで全体が馴染んでいる。東京第8データセンターは倉庫の対荷重や耐火性を活かしてデータセンターに転用されている。既存の特徴をドライブさせるカスタマイズがたくさん登場するようになった感がある。

だいぶ箇条書きみたいになっちゃった。

 

住宅特集2020年12月号 光と風のデザイン

内藤さんが昔東大で講義を持っていた頃に「デザインとは翻訳である」と教えていたそうだ。翻訳の対象は技術、場所、時間の3つだった気がする。いずれも共通しているのは不可視の事象をモノによって可視化する点である。

kenchikusaisei.hatenablog.com

 

そういう意味では今月号の特集は環境の翻訳と言えようか。なんだか前にも同じようなことを書いた気がする....。環境の翻訳と言う視点にもっともしっくりくるのは箱の家164だろうか。難波さんは箱の家シリーズで一貫してローコスト、工業化、サステナブルな住宅を目指している。理論と実践、仮説の構築と検証の間を往復するような活動を自分もやってみたいと思う。構成は敷地が建物と庭・駐車場に二分され、建物は中央の吹き抜けを介して両側に居室が並ぶ、いたって明快。構造と非構造の塗り分けによるアーティキュレーションも分かりやすい。こういったモダンな美学では合理性を視覚化したくなるものかなと言う気がするけれど、対談レジリエンスと建築家では環境制御の結果をそのまま形にするデザインは一元的で単純すぎると否定的なコメント。確かに空調方式で新しいことを試みているけれど、そこはあえて表現されているようには見えない。

掲載されている作品は温熱環境ではなくもう少し広い意味での環境をテーマとしているものが多いように思う。家具の家は道路側の外壁を視線より高くすることで、それより上を一枚の大開口としつつ視線をコントロールしている。プランもシンプルで、箱と家具だけの建築という感じ。論考塀のない家は頷きながら読む。たぶん僕たち日本人にとって不動産は自分のものと他者のものの二つしかなくて、公のものという概念はないのだと思う。庶民が戸建住宅を所有できる法と経済状況にあり、ささやかなセキュリティで都市が成り立つ日本ならではの街ができると良いなとは思う。その点、サクラと住宅は文字通り塀のない家ができているし、見開きの写真には一瞬公共建築かと思わされた。桜という公共的な財産を残す精神が塀のない街を作らせるのだろうか、なんて思ったり。あとは吹上の家のような、周囲と外壁面(や高さ)を揃えたり。対照的なのはHouseTで、セットバックも開口も一切なし。自宅なだけあり経済的な試行錯誤がなされた経緯が書いてるのは意表を突かれたが、これくらいのシミュレーションは普通はやらないのだろうか。寒冷地のトンネルと台形も開口なしに近い気がする。ポリカのような素材で間接光を白い室内に室内に拡散させる、五十嵐さんの十八番。

他には出窓を活用している都市型住宅もいくつか掲載されている。どちらかというと地価の高い都心で物理的にも心理的にもなるべく広がりを持たせるための道具である。出窓の塔居は出窓がぐるっと周りを囲むような形式が構造にまで敷衍されているけれど、風や温熱環境の制御にも寄与していると言う説明を鑑みても、少し形式主義的な気がしないでもない。武蔵小山の住居は出窓が造作家具のように振る舞うことで狭小住宅に広がりを与えようという試みがなされている。島田さんはスキップフロアが上手だけれど、今回は軸を振る余裕はなかったか。上井草の住宅も同様にスキップフロアの狭小住宅だが、こちらは中央の壁の周りをぐるぐると回りながら階段を上ることで視線が移り変わる。川辺さんは共同住宅で登場するイメージがあるので新鮮さを感じる。こういった狭小住宅では法的に実現可能な最大の面積・ヴォリュームをいかに豊かに計画するかが計画のほぼ全てと言って良いくらいになるけれど、どちらかというと豪邸の部類に入るConcrete Shell Houseもコンクリートの殻で大きな軌跡を作ろうとしている。考えてみれば予算との格闘は狭小住宅だけではないはずで、豪邸のクライアントは億ションと戸建で迷ったりしているだろう。

地方に建つ富里の家はRCの平屋で深い庇がついていて、沖縄の住宅という感じ。松橋の家はリノベかと思った。田舎でこれだけ敷地面積があったらもっと外壁の開口がありそうにも思う。でくさんちは塔のようなプロポーションとともに4面に同じように開口が設けられた立面が特徴的。周りが比較的空いていることがこの形式をもたらしたんだろうか。

斜面地でのリノベーションである高台の大窓はP101の遠景写真が増設されたテラスと縁側をよく物語っている。同様に斜面地に建つ御影の家は長手方向の抜けが快適そう。

 

(2h)

新建築2020年11月号/木造特集

今月は木造特集である。国家的な後押しもあって需要が高まっているせいか、最近は毎月のように木造の中高層が掲載されている印象がある。それらの作品はどれも木造であることを積極的に表現しようとしており、建築がハコモノと呼ばれて悪者扱いされていた頃に比べると、「自分たちがやっていることは正しいことなのだ」というポジティブさのような雰囲気を感じる。IT技術の発達もあり新しい建物を作ることができるのではないかという期待感や時代の要求に応えているという自己肯定感を感じる。ある意味木造ユートピアとでも言えそうな(?)状況かも知れない(笑)。とは言えこの自己肯定感の背後にはエコでかつ地域経済・産業に寄与するという政治的正義が付いていることも事実であり、社会への切実な提案というよりは国家の戦略に乗って延命を図ろうとする業界の目論みがあることもまた事実なのかなとも思ってしまう。そういう意味では誰のためのユートピアなのだろうかとも。

特集記事木造の多様な価値観を育てるは大径木など資源の活用法に対する需要、小さい林業と大きい林業ベンチャーディベロッパー・スーパーゼネコンなど新たなプレイヤーが参入している現状や更なるプレイヤー育成の必要性に頷きながら読んだ。山というリソースを最大限に有効に活用するにはなんと言っても歩留まりの良さが不可欠になるわけだが、そういった意味では小郡幼稚園が注目作らしい。一般的には流通させづらい大断面と縦ログ構法による規格品の大量生産のハイブリッドという点で、大きな林業と小さな林業の両方にまたがる作品である。現場打ちとPCを併用したRCのような感じかも。Mesta Pavilionはプレカットの大断面材を海上輸送したという点に可能性を感じたが、作品自体は RCの考え方で部材を木にしたという感じがしており、この工法ならではの建築になるとより良い気がした。カヤックガーデンオフィスCAMPODは三次元曲面が導入され前作からの進歩を感じるし、木造ならではという感じがする。同様に工学院大学附属中学校・高等学校屋内練習場の透明度95%のファサードも木造でないと実芸できないだろう。

透明感というかすっきりした印象としては高知学園大学も近いものがあった。素材も技術も汎用性のあるものですっきりしているが、やや構造表現主義的だと感じる。飯能商工会議所は地元の材と人を動員した構造(平行弦トラス、組格子耐力壁、CLT折半構造、支点桁架構)と内装、それらを包むカーテンウォールというある種表現主義構造主義の感がある。日本人で最初にやったのは坂さんだろうか。他に表現主義的な印象が強いのはスーゼネによる2作。大成建設技術センター 風のラボは構造のシステムが面白いのでこの形を突き詰めれば空間としてもより良くなる気がする。その他、LVL1h耐火構造とRC壁柱の混構造であるやはた幼稚園 保育ルーム、木の屋根構造、鉄骨の梁、木の柱から成り、柱と梁のメンバーがほとんど同じに揃えられている湖の家 サメうらカヌーテラス、同じく梁が鉄骨で逆梁となっているROBRAなど。テクノキューブは流通材を合わせた合成材が使用され、RC造のフレーム構造に合う架構を作ろうとしているが、木造に合う新しい架構を考えた方が良い気がする。


宮島口旅客ターミナルは、厳島神社に勾配を合わせた大屋根が広がり、その下にヒューマンスケールのハコが分散配置されている。軒裏と一部のハコの外壁に杉板が用いられ、その他は白く塗装されることで、図式が明示されている。前作とも通じる、ヤネの下でありつつハコの外である部分が生まれる。ヤネが作る一体感とハコが作る親密なスケール感を生み出している。将来的な増改築などにも耐性がありそうな気もする。
全体を取りまとめる大屋根とヒューマンスケールを作り出す装置という構成は那須塩原市図書館 みるる+駅前広場にも共通している。凹凸による森のような変化のついたヤネに比べると、地上の本棚はやや短調か。
浜離宮近くの構想事務所ビルである東京ポートシティ竹芝は、上記2作と同じく大スケールとヒューマンスケールの横断がテーマの一つである。雛壇状の低層部はヒューマンスケール 緑は浜離宮への応答の意味もあろうが親しみやすさの創出にも寄与している。

 

論考は箇条書きで。。。

  • 70年代は、20年代〜60年代の主役だった、巨匠による近代建築が通用しなくなった
  • コンプチュアルなものだけでなく現場でも通用する理論であった(と西沢が指摘する)手法論
  • 正解は分からないがやってみる
  • 北九州市立図書館、西日本総合展示場
  • 70sに出現した問題は、まだ未解決だが、ポスト・モダニズムに収斂してバブルとともに消えたように錯覚されている

 

(3h)

風土

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

安藤忠雄が好んで熟読したというエピソードが本書を知ったきっかけだったと記憶している。学生時代に読んだおぼろげな記憶といえば、世界を3つの気候帯に分類して整理したという程度のものだった。

本書のめざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。〜自然環境がいかに人間生活を規定するか〜ではない。〜自然環境〜は、人間の風土性を具体的地盤として、そこから対象的に解放され来たったものである。かかるものと人間生活との関係を考えることは〜対象と対象との間の関係を考察する立場であって、主体的な人間存在にかかわる立場ではない。

 

自分が風土性の問題を考えはじめたのは、〜ハイデッガー『有と時間』を読んだ時である。人の存在の構造を時間性として把握する試みは、自分にとって非常に興味深いものであった。しかし、〜なぜ同時に空間性が、同じく根源的な存在構造として、活かされてこないのか、それが自分には問題であった。〜そこに自分はハイデッガーの仕事の限界を見たのである。空間性に即せざる時間性はいまだに真に時間性ではない。ハイデッガーがそこに留まったのは彼のDaseinがあくまでも個人に過ぎなかったからで〜彼は人間存在をただ人の存在として捕らえた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的なる一面に過ぎぬ。そこで人間存在がその具体的なる二重性において把握せらるとき、時間性は空間性と相即し来たるのである。ハイデッガーにおいて充分具体的に現れて来ない歴史性も、隠して初めてその真相を露呈する。とともに、その歴史性が風土性と相即せらるものであることも明らかとなるのである。

人間存在を考察すること、人間存在の重要なファクターである風土性を明らかにすること。

ハイデガーが『存在と時間』にて人間存在を時間性として把握しようとしたが、和辻にとってそれは抽象化された個人にしか焦点を当てない不完全なものであった。和辻は人間の空間的な側面、つまり個人ではなく社会的な側面に目を向けることでより正確な人間存在に近づこうとした。

 

このような和辻の考えはヘーデルからの延長上にある。和辻は風土の問題が歴史家達の中でどのような地位を占めていたかを最終章で振り返る。それによれば、ヒッポクラテスをはじめとする古代人は既に風土の違いに基づく国民相互の違いを認識していたものの、この時の風土はあくまで認識の対象に過ぎなかった。その後、キリスト教による創造主への信仰が続いた時期を経て、16世紀末には自然的素質や風土がもたらす労働の違いによって国民性が左右されると唱えたボダンを経て、へーデルが初めて人の内に現れるものとして風土を捉えた。それは人格を持つ神というよりは生ける有機力なるものだった。かかる存在が人間の精神にどのような影響を与えるのかは今の我々には到底わからないものであるから、へーデルは自然をありのままの姿として捉え解釈しようとすることで、精神と区別しない自然の概念に基づいて個々の国民の価値・個性を明らかにしようとした。それはカントによって学問ではなく詩学だと批判されたりマルクス唯物史観に引き継がれたりしながら、本書を生み出すに至った。

和辻は湿度に注目することで、へーデルによるモンスーン、草原、砂漠の分類による風土的考察を発展したものである。本書ではモンスーン気候は畏怖と慈愛という背反する感情を自然に対して感じるとされている。だが、個人的に中国の人と仕事をした時に感じたことは、彼らは日本人と比べて非常に人工的な感じを好むということである。僕らのように素材の良さを愛でるような感性は感じられなかった。つまり、自然を征服するような草原的な感覚を持っているように感じられた。

 

(67.75h)

住宅特集2020年11月号  スケールとディテール 第36回吉岡賞

ディテールとは単なる物理的な詳細という意味にとどまらず、作品のコンセプトや建築家の信念が現れる箇所なのではないか、という編集の視点には共感する。中でも、副題にあるように環境に開くことに注目しているようだ。住宅特集には住宅を開くというワードがよく出てくる。開き方とはすなわち風土との関わり方であり、和辻哲郎が『風土』で述べたところの風土を通した自己了解の仕方である。そうならば、建築家が風土を通して自己を了解した方法を、ディテールとそこに込められた想いを読み解くことで、トレースできるのではないかという仮説も自然なことに思われる。

そういった意味では、風土や地形からどのようなことを感じたか、最も雄弁に語っているのが尾根の屋根ではなかろうか。地形で感じた事を素直に空間にしようとしていると思う。尾根の突端に位置し、等高線に沿った道路のカーブを延長したような軒先ラインが東側の空に向かって伸びている。反対側の軒は800くらいの高さに抑えられている。ビューを確保するためだけではなく、竪穴式住居の原初にまで立ち返って屋根を再解釈しようという試み。これが屋根の建築だとすればオプティカルグラスのリヤドは壁(スクリーン)の建築か。平面形状はコート・ハウスの形式であるが、コート・ハウスは過去にも正面のない家、ホワイトU、住吉の長屋など日本の近代住宅史でも定期的に名作が生まれている。ただ、この作品がこれらの事例と違う点は、外界と中庭を隔てる壁が透けるスクリーンになっている所である。モロッコのリヤドが引き合いに出されているが、このスクリーンはゲルのように軽い。軽いだけでなく透けているものだから、この家はコート・ハウスであると同時に、道路から透けるスクリーン、矩形の庭、L字型の住宅とグラデーショナルな空間構成をした家だとも捉えられる。そういった軽く透けるスクリーンで囲われたコート・ハウスという点がこの作品の新しさであるように思われる。それにしても中村さんは初期の店舗の時からガラスを透過して屈折する光を使い続けているところにある種の作家性を感じさせられる。

美杉の舞台はセルフビルド故の緩い傾斜における掛け造りと古典的な比率からなる佇まいがセルフビルドに対する強度と大らかさをもたらしている。p.54~55の鏤められた写真が示すように、一つひとつは局所的で目的的な手段の集積でありながら全体としての姿がまとまりあるものになっているのはこの強く緩い構成によると思う。森の図書館ダンゴムシの背中のような、はさみを入れたような、不思議なスリットの入った3次元局面と修正材が天井を分節することで球状の強い形になることが回避されている。グリーンの壁も建築の強さを弱めることを成功させており、穏やかな空気に包まれた不思議な安心感を感じさられる。大原の家白の家のよう隅部の柱が3本まとめられている正方形が二分されている。4方をとりまく下屋のひとつが水回りになっている。2階は4方に解放された気持ちの良いプラン。ODESSEYは一方の出隅に刻みの入ったルーバーがトップライトを柔らかなトップライトの光を作っている。出隅の底面が影で暗くなり側面が光で明るくなる。その繰り返しが効いている。現代の法規に則しながらも伝統的な数寄屋を伝えることを試みている月明と数寄は360角の柱が真壁のまま現代的な性能を担保している。

豪雪地帯にもかかわらず家を開いて自然と一体になろうとする風土が日本の他にあるだろうか、と魚沼の家を見てふと思った。豪雪地帯でZEHの性能を確保しつつ自然と繋がるための、木製サッシとその収まり。船頭小屋は1坪という茶室よりも削ぎ落とされた狭さが故に広がりが実感される。ただっ広い中に立っているだけでは味わえない広がりである。

タープは面白い屋根の作り方がより活かされると良いと感じた。西浦の家は様々な場所を作るために建築と家具と外構が同様に力を入れられている。

House IT 三法吹抜けと密度は、外壁を後退させることで減額と環境性能の確保を両立させることで、建蔽率を最大化に走る商業主義的な建売住宅による住環境の悪化を批判的に乗り越えようと試みている。けれど、大切なのは環境を向上させるハードではなく公共の概念の定着であり、この住宅は僕たちの公共の欠落を示しているように思われる。

 

第36回吉岡賞はうまく作るよりも(うまいけど)ぶつけたエネルギーだろうか。

 

3.5h 時々テレビ

住宅特集 2020年10月号 別荘

10月から東京もgotoトラベルキャンペーンの対象に追加され、首相は東南アジアに外遊してビジネス関連の入国を解禁する方向で調整が始まっている。今朝のニュースでは高齢者施設でも面会が解禁され始めていると報じられていた。感染拡大が一定程度抑えられていることもあろうが、それよりも僕たちが年明けから続く新型コロナウイルスへの感染回避のための生活に耐えられなくなっていることが1番の要因であるように思われる。今月号の特集が別荘と半動産建築であることはこの事を象徴しているように思われる。別荘は都市の過密から逃れる手段であり、動産建築は家ごと移動する住まい方を可能にする手段であり、そしてどちらも移動しながら暮らす事を可能にしてくれる建築である。結局僕たちはある程度動かないと生きていけないのだと思う。少なくとも、移動する自由を保障されてない人生は考えられない。半動産建築については移動可能な住宅のこれからで述べられているように、いずれ一般的なものになるのかもしれない。

 

瀬戸内の別荘は瀬戸内海を望む敷地に位置し、板柱で持ち上げられた居室が4方へ枝状に伸びている。居室は全て矩形で、屋根の高さを変えながら互いに重なり合うことで互いの居室同士や内外が相互に浸透し合う。所々に鏡面の建具に映った虚像が入り混じる。森の離れの敷地を3つに分割して分棟とする形式は森山邸を連想させるが、ここでは樹木の保存や1つのホテルから複数の別荘への転用を可能にしていることが新たな発見だろう。また、各棟が互いに連帯感を持ちつつ森林の風景に溶け込んむことで透明な内部空間が成り立っている点は瀬戸内の別荘と類似しているかも知れない。

一方で屏風絵の家は中心からのパノラマビューが重視されている。また、別荘という用途上起伏の激しい敷地に位置する作品が多い。SETOYAMAは道路に沿って細長い上に背後が斜面地、CLIFF HOUSEは海に向かって傾斜する斜面地。M-WALTZはトップライトからの光が降り注ぐ直線状の廊下の両側に居室と庭やテラスが交互に連結され、森の小屋は矩形を噛み合わせた構成をしており、それぞれ外部との繋がりが意図されている。

軽井沢の住宅産業化の外側に目を向けて建築を考えると題された論考を読む方が分かりやすい。作者はこの中で磯崎新が『小住宅バンザイ』で述べた「住宅は建主との密接な関わりの中で生まれるため建築たる社会性を欠いている」という主張を取り上げている。建築の歴史上エポックメイキングなメルクマールとなった住宅はごく僅かだしその通りな気もする。けれど、建主が自分の思うままに住宅を作ることができるのは、一定の産業構造の範囲内においてである。その範囲の外に出ることで住宅を社会的な存在足らしめ、建築にすることができるのではないか、ということなのだろうか。もしくは産業構造が建主の自由を阻害していることを批判的に指摘しているのかも知れない。

泉涌寺道の町屋西橋詰町の長屋は京都の町屋をセカンドハウスとして改修した作品であり広く土間を取っていることに象徴されるラフさに目がいく。セカンドハウスだから出来ることなのか。

集落の教え100、建築家なしの建築

集落の教え100

原さんが東大在職中に世界中の集落を調査していたことはあまりに有名だし、若い頃に同行した小嶋さん、隈さん、山本さん(これは知らなかった)が強く影響を受けたことは想像に難くない。

本書はその調査から得られた空間デザイン上の100の教訓を列挙しているものであるが、個人的にはその後に付録のように添えられている捕注に興味をそそられた。原さんにより体系化された集落の教えよりもむしろ集落そのものの方に興味を覚えたのかも知れない。たぶん原さんもこの本で集落からの学びを体系化し切れたとは思っていなかったはずで、だから数式に興味を移していったのだと思う。つまり、自分が見たものをいかに記述するかを模索するようになったのだ。次はその内容を読んでみたい。

その他で興味を持ったこととしては、原さんが集落や建築や都市を自然に対する人間の反応と見ているように思われる点、部分の総体としての全体ではなく部分の集合としての全体という部分と全体の関係などが挙げられる。原さんの本は以前「空間<機能から様相へ>」にチャレンジしたが難し過ぎて挫折したままであるが、本書が理解の助けとなる気がする。

 

たまたま本書の次に読んだ本が「建築家なしの建築」であったが、原さんは明らかにこの本に影響を受けて集落調査を始めたのではないかと思う。原さん自身による言及は見たことがないので何とも言えないけれど。

 

建築家なしの建築 (SD選書 (184))

「建築家なしの建築」の内容は「集落の教え」同様、様々な集落をその特徴と共に列挙するというものである。本書が1964年に行われた「<建築家なしの建築>展」に合わせて著されたことからも、ただ観察するだけでなく俯瞰的に概観して構造化しようとする意図が見て取れる。また、個人による構想とは異なる構想力・想像力の発見、ポストコロニアリズム的・エキゾチズム的な視点、自ら現地に行ってみる点も原の視点と共通している。というより、やはり原さんはこの本(や展覧会)を見て自分の活動に取り入れたのではなかろうか。役者の後書きでは次のように書かれている。

本書が役割が無名の工匠による風土的建築に対する偏見と無視を取り払うのに果たした役割の大きさは疑うべくもない。〜発行から10年を経た今日、〜無名の風土的建築物の中に価値や意味を見出すことはむしろ一種の風潮と化しつつある。

この活動が世界中で展開されたとして、その役割を日本で果たしたのは原研究室だったと考えるのは不自然だと思われない。若い頃にこの活動に携わった弟子世代が今まさに原研究室での活動に影響を受けて創作しているということだ。

 

集落調査から受けた影響は自邸など原さんの設計活動にも強く現れているが、特徴的なのはむしろ得られたデータを客観的・数学的に記述しようと試みた点ではなかろうか。具体的にどう言ったテキストを残しているかは今後の宿題として、パタン・ランゲージ(C・アレグザンダー)なんかはその最たるものだと思われる。

パタン・ランゲージ―環境設計の手引

 

14時間+2時間