篠原一男と言えばシノハラスクールという言葉に表される抽象的な作風が特徴的である(と例えば「現代建築史/ケネス・フランプトン」などに書いてある)。
伊東さんは色んな所で篠原さんの抽象的な空間への憧れを書いているし、安藤さんのあの抽象的な空間は篠原建築の影響だという指摘を目にした時はなるほど、と思った。そして2人ともキャリアの最初期を飾る住宅で都市から距離を取り内側に引きこもる点で篠原建築と共通している。
そんな日本の現代建築におけるメインストリームの育ての親とも言える住宅作家の思想が詰め込まれているのが本書である。ここでは有名な言説を採り上げて、僕なりの解釈を添えて行こう。
住宅はきのこである
日本人は古来から自然と寄り添って生きてきた。日本人の住まいは風土にあわせて変化・進化してきた。
住宅は大きければ大きいほど良い
特定の機能をあてはめられた空間よりも、機能から解放された空間こそ美しい。そういった「(機能主義的な文脈では)無駄な空間」をつくるゆとりが必要なのではないか。
住宅は芸術である
経済成長の要請で社会が工業化されればされるほど、住宅設計は生産の主役から引き摺り下ろされる運命からは逃れられない。そんな状況で疎外感に打ち拉がれるのではなく、「人間そのものに直接関わり、文化を創造する」という役割が残っているのではないか。*1
様式とは、単なるデザインの手法の集計ではない
大切なのはその裏側にある精神を形にすることだ。
たとえば日本建築の空間構成は、西洋建築が「連結型」であるのに対して「分割型」である。ここに見られる単純化・単一化は日本人の特性のひとつと言えよう。*2
そのようにしてある程度完成されられた様式は象徴化され、我々をその枠の中に閉じ込めてしまう程に極力な力を持っている。戦後の慌ただしい時期から脱出した今(1962年)こそ、前時代の様式を振り返り新しい様式を生み出すべきではなかろうか。
住宅は美しくなければいけない/失われたのは空間の響きだ
いやいや使いやすさの方が大事でしょとか、戦後日本の中心思想は機能主義だろとか言われそうだけど。
でも日本人が競って輸入している機能主義というコンセプトやモダンリビングや「連結型」の平面構成はどれも西洋人が西洋人の伝統から生みだしたものでは?そもそも彼らは神の時代だった中世からルネッサンスを経て理性的な人間の時代を自分たちでつくった。合理的なるものというコンセプトはその結果なんだよ。*3
そういった本質も理解しないままに「機能的なものがいい」なんて言っても意味が無いし、「機能主義を乗り越えよう」とか言ってる人は乗り越える対象を正しく理解できていないことにまず気がつくべきだ。
何世紀もまったく違う生き方をしてきた西洋人がやっていることを表面的だけ猿真似するのではなくて、自分たちの生き方や生活全体を自分たちのアタマで考えよう。*4
装飾のための覚え書き
抽象的な空間への反動のせいか、装飾的な表現が増えつつあるように思えるけれど、やるなら日光東照宮の陽明門くらいに徹底的にやるべきだ。徹底的というのは様々な意味で現代にふさわしく現代にしかできないものをつくるということである。
そうすることで機能主義・合理主義の先へと進むことができるかも知れない。
三つの原空間
空間の原理は機能空間、装飾空間、象徴空間の3つに分解されるよね。
虚構の空間を美しく演出したまえ
「住宅は芸術である」と宣言したように、建築家として住宅をつくることの意味は文化の創造の一端を担うことである。だから、建築家としてつくった住宅は雑誌などの媒体を通して人の心に響くものでなくてはならない。また、都市計画や敷地条件や施主要望といった外部要件からも完全に自由なものでなければならない。
美的感覚だけを優先したもの、使えないもの、生活とかけ離れたものをつくるのは如何なものかという批判があるかもしれない。でもそう言ってる人達は、外部条件(施主要望・予算・敷地など)や中での生活の様子など把握せずにファンズワース邸を見て建築を志しているのではないか。
原型住宅
もう自分のつくりたい住宅をつくって、数量限定で売り出せば良いのでは?
施主に依頼されて考えるのではなく、自分で考えて市場に問う。
黒の空間*5
明るく透明な空間に対するアンチテーゼとしての空間。
究極的にインテリアだけの空間。
真に「連結型」の空間。
空間の思想化が住宅設計にとって大きな問題となるだろう
建設業界は、大組織事務所と工場生産に下支えされた産業施設と都市計画といった「技術化」された空間が主役になっている。それならば「技術化」と対をなす「思想化」が住宅建築の存在意義だろう。
自然科学的な都市・施設空間が技術を強化しているのならば、人文学的な住宅空間は思想を強化しなければならない。