建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

新建築20年2月号 集合住宅特集

コミュニティが生まれ、都市が育つ」と題された建築論壇では、建築とは都市計画に従って箱を配置していく行為に止まらずボトムアップ的に都市を作っていく主体になり得ることが示されている。と思う。ヒルサイドテラスにおける低層であることの意味や共用部の回遊性などのデザインについてはこれまでに数え切れないくらい語り尽くされているが、この論壇で示された建築の価値は、「自分たちは何をすべきなのか」を考え抜く媒体となることであるように思われた。

 

そもそも集合住宅をつくって集まって住む意味は一言で言えば資源の有効活用である。資源を共有することで戸建てでは得られない豊かさを等しく獲得することが目的であるわけだが、目指すべき豊かさの定義をさまざまな人たちが考えるきっかけとなっているプロジェクトが多いように思う。現代集合住宅の聡明期を担った公営住宅は、70年代に統計上では床不足が解決したころから徐々に約割をセーフティネットへと移行し、現在では民間が開発の主役を担っている。そこでは市場原理にそって収益源となる床を合理的に積層させることに終始する例が後を絶たない。2005年には不動産の証券化が可能となり近年では中国など外国人が物件を買い漁るなど、集合住宅はますます市場の通貨としての性格を強めている。

 

そんな時代で今月号の作品ではどんなコミュニティの創出が意図されているのだろう。

オンデザインによるまちのような国際学生寮はおそらく法的に最小限必要なのであろう7平米の個室と避難に必要な共用部という寮としてはスタンダードな構成をしているが、吹き抜けとポットを挿入する事で廊下をリビングのような場所にすることが試みられている。色々な場所があるようで実はスケールはほとんど同じであり、日本人的な距離感というかまとまり感を感じた。竹中工務店による深江竹友寮も同様であるが、エネルギーの掛け方には差があるかな。

 

動線に光や風を通しつつ人の滞留が意図されているはつせ三田、周囲の路地を引き込んでコモンテラスをつくる向丘・旬創館は、共用部を豊かに計画するという我々世代が受けた建築教育の基本を地で行く中高層、低層の例だと位置づけられよう。単なる収益計算からはじき出された計画よりある種の豊かさはあるが、一方でそれだけでしかない感じもする。豊かな共用部が生活の質に直結しないのは、共用部が敷地内だけのために計画されてしまう視野の狭さや、共用部を作れば人々は交流するという安易な幻想が原因ではないかと思う。ヒルサイドテラスが上手くいっているのは、単に共用部を作ったとか、建物の高さを揃えたとか、そういう単純な話ではない。

 

そういう豊かな共用部を計画するプランニングとは異なる方向性としては、中高層に必然のフレームをインテリアに取り込んだ三組坂flatの「隣接するセル同士の関係性」という主題や、立体的な門型構造を採用したLayerの「直方体の3次元的な数珠つなぎ」などがある。やや特殊なプログラムである子どもの家は見え隠れする関係やレベル差の明示などで流れと淀みを作っている。

 

リノベ系の御成ふくろ小路はとやまハウスは残すものの選定という行為が、当事者の顕在化や生き方の探索を促す媒体となっている。ハイツHは画一的な住戸が並ぶという片廊下木賃アパートの形式を再生している事が外観にも現れることも期待したくなる。GLを再生して敷地を開いたリエットガーデン三鷹は数年前に見学したシェアハウスと同じ手法。塀を解体するだけで環境を変えることに成功している。その他に暖色で縦使いの照明、ペールトーンのカラーリング、シルバーの仕上げ、積層材の造作など蓄積されたスタイルが定着しつつある。こうした部分的な手法の蓄積がこれからの建築家が自らのスタイルをつくる方法なのかも知れない。躯体は活かすという不文律を乗り越えたBASE CAMP TOKYO はその勇気を見習いたいものの、それを可能にしている技術も表現されるべきだと思う。壊すというのは大変なことなのだと伝えることも建築の大切な役割になりつつあるのではと思う。

 

公営住宅という性格上、一連の災害復興住宅ではつくることそのものが生むコミュニケーションよりも、いかに画一的でない魅力的な生活の場をつくるかが試みられている。住棟配置や外構といった旧来から続く比較的規制から自由な領域や、光や風といった規制できない領域で差別化をはかることが有効なのだろう。

 

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