建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

住宅特集 20年3月

 言うまでもなく平家は最も簡易で原初的な構築物であり、その代表は木造による架構であろう。日本における架構の発展は、大陸からの組織的な文化・技術の輸入により始まり、様々な試行錯誤を経て、柱梁の門型フレームを桁方向に延長させた周囲を雨避けの庇が取り囲む、「門型フレームの連続配置」とでもいうべき型に落ち着いた、というのがぼくの理解である。以来、大半の建築物は平家であり、平家でなくても城郭など特殊な例を除いて1階以外は屋根裏といった脇役とされた状態が戦後頃まで続いた。一説によると、増築時における法20条の扱いがいわゆる「1/20かつ50m2位内」と定められているのも、団地へのEV増設と木造平家住宅への2階増設が想定されている事によるらしい。

 前置きはこれ位にして今月号を総括すると、①「門型フレームの連続配置」架構によるリニアな空間形式が目立った事と、②風土の積極的な設計への反映が散見された事が特徴的である。三角屋根のリニアな矩形平面という単純な形式であるが故に、風土の読解と架構の構築の結果がダイレクトに住棟配置やフットプリントのプロポーション、空間構成などに現れて、平家の様々な可能性を感じさせられた。

 風土と聞けば反射的に地域素材の使用が連想されるが、吉村氏は論考で風土の本質は「ための連関」だと述べ、安直な地産地消による単なる地域表現主義を批判する。黒屋根の家では配置や断面、素材に至るあらゆる事項が、地方風を活用して盆地の湿気に対応しつつ極限まで削ぎ落とされた施主要望に応えるために決定されている。フレームの連なりに屈折という操作を加えた新規性が、この作品を他より一歩抜きんでたものに押し上げていると思う。風と水野間の家は海風と山風に沿って架構を連続させ、ヴォリューム全体が風の通り道となる事を意図されている。豊富な地下水を利用した水面により夏は涼しいだろう。風と水という共通のテーマに対して、2作が対照的なアプローチをとっているのが面白い。肥田の家はそっけない佇まいであるが縦横にシンメトリーな構成と光の中に生活が組み込まれ、機能をもとに計画された平面にはないある種の安心感がある。茂庭の家は周囲の住棟配置から積雪に対する知恵を読み解き、さらに快適な温熱環境を得るためのプランニングにも反映させている。

 無印良品「陽の家」は商品住宅であることが、桁方向へのフレームの拡張性と計画の冗長性を親和的に繋いでいる。小屋裏を使いたくなってしまいそうだけれど、先へ先へと伸びるフレームの原理を原さんが無意識に触発されたのではなかろか。ヒュッテナナナは透明感のある空間と鉄骨と木のハイブリッド架構が特徴的だが、なるべく木造でどうしても無柱にしたかったのだろうか。淡路島の家はスパンも面積も大きい。設計者が木材の選定まで関わることで可能になっている架構。一方で十文字の家は2間スパンで無柱空間の架構とすることもできたはずだが、屋内の主空間と半屋外のサブ空間がサンドイッチされた空間構成から、サブ空間が屋内化されたとみなせよう。日進でのたち方は形式性が前面に表現されているようで、フレームと壁という違いはあるものの同型の要素を気候条件に配慮しつつ連続配置するという点は古典的な手法そのものと言える。形式性が強いという意味では、soli houseは風・土・技術を串刺しにした独特の形式が考案されている。

 「門型フレームの連続配置」という形式が上記の作品に共通している一方で、慶良間の家は「矩形平面と分散配置されたコア」という形式である。これは沖縄の台風やブロック造が多く木造は普及段階であることなどの条件から導かれており、住宅という用途に限定されない強度を獲得している。ただ、スパン2900なら普通に横架材を通せば対応できるのではなかろうか。横架材がFL+2000ぐらいの位置になるが、それはそれで2Fや小屋裏として使い易くなる気がする。同様の形式は奄美父母の家にも見られる。

 このように見ていくと、地の舎は「門型フレームの連続配置」と「矩形平面と分散配置されたコア」をハイブリッドにしたという面白さがより徹底された状態を拝見したいとも思わずにいられない。コスト的に頑張っているのは分かるが、擁壁、架構、屋根という構成やそれぞれの結構がより抽象的であるとより法面を削り取って生じた半地下に屋根を架けているという構成が分かった気がする。たとえば架構は全てメンバーを揃え、外壁を屋根と違う素材にする、けらばの処理をする、中庭から見えるブロック塀はコンクリ立ち上がりとするなどしてはどうだったろう。

 生垣の中の家は、分散・雁行配置された部屋や屋根によるスケール感や自然に寄り添う精神がまた別の意味で日本的である。一方で、その名の通り生垣に囲まれた立地により屋根を架けるだけで住宅として成立している形式性、ガラスや防湿など近現代ならではの素材や構法を用いて現代的な光の感じや地面との近さをつくり出すことが試みられている。

 篠原一男は「住宅論」で日本的な田の字プランによる空間構成を「分割型」と分析し、「連結型」による西洋型の空間構成と比較した。田の字型の構成が見られたのは赤坂の小さな増築の1点だけなのは、それが「門型フレーム」の派生であることを示しているのだろうか。最小限の小屋であるが、建物単体ではなく敷地全体の使い方を考えた事でこのかたちになったのであろう。

 里山の平家暮らしはいずれとも異なる「グリッド型」と言えそうだ。益子の住宅+細工場は架構というより配置に注目。2階建てや1棟平屋ではなく、2棟の平屋にしたそもそもの理由を想像してしまう。2つの玄関はグラデーショナルな半屋外空間を介して対面しており、ある種の連続性が意図されている。一方で、玄関以外は半屋外に対して開いたつくりにはなっておらず、むしろある種の断絶が意図されている。住処と仕事場はあくまで別の場所にしたいけど、ちょろっとすぐ行き来したい、という意図か。