内藤さんに対するぼくのイメージの源泉は2つある。
ひとつはぼくが唯一経験した作品の島根県芸術文化センターで、何か目まぐるしく変わる時代や流行とは無縁のことを対象としているであろうことを感じた。
もうひとつは、学生時代の助教から聞いた「内藤事務所のOBは実務で迷った時は内藤さんに図面を見せられるかどうかを判断の拠り所とする」というエピソードだ。
これらのイメージから湧き上がった内藤廣という漢(という言葉がしっくりくる感じがする)の建築家像には、建築をつくることではなくスターアーキテクトになることを良しとする風潮に踊らされていた当時の自分にとって、新鮮であると同時に安心感があった。
それを感じさせる源のようなものが、本書の締めで述べられている素形というコンセプトではないかと思う。限りなく私を削ぎ落としていった先に残るであろう、ぼくらの奥底に潜んでいるイメージの大元のようなもの。
形は設計者の自己表現ではなく、技術や環境や場所や時間をひろく伝えるための翻訳作業の結果。翻訳したものをどれだけ広く理解・共感してもらえるか。そのためにいかに美しい形へ翻訳するか。そこに感性の問題がある。
再生建築や環境建築という言葉で政治性や経済合理性を持ち出そうとすることが何とも浅はかな行為に見えてくる。
おそらくぼくが今やるべきは、技術の翻訳、環境の翻訳、場所の翻訳、時間の翻訳、そして先人によるそれらの翻訳そのものに対する翻訳。翻訳の翻訳。そんなところだろう。