建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

風土

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

安藤忠雄が好んで熟読したというエピソードが本書を知ったきっかけだったと記憶している。学生時代に読んだおぼろげな記憶といえば、世界を3つの気候帯に分類して整理したという程度のものだった。

本書のめざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。〜自然環境がいかに人間生活を規定するか〜ではない。〜自然環境〜は、人間の風土性を具体的地盤として、そこから対象的に解放され来たったものである。かかるものと人間生活との関係を考えることは〜対象と対象との間の関係を考察する立場であって、主体的な人間存在にかかわる立場ではない。

 

自分が風土性の問題を考えはじめたのは、〜ハイデッガー『有と時間』を読んだ時である。人の存在の構造を時間性として把握する試みは、自分にとって非常に興味深いものであった。しかし、〜なぜ同時に空間性が、同じく根源的な存在構造として、活かされてこないのか、それが自分には問題であった。〜そこに自分はハイデッガーの仕事の限界を見たのである。空間性に即せざる時間性はいまだに真に時間性ではない。ハイデッガーがそこに留まったのは彼のDaseinがあくまでも個人に過ぎなかったからで〜彼は人間存在をただ人の存在として捕らえた。それは人間存在の個人的・社会的なる二重構造から見れば、単に抽象的なる一面に過ぎぬ。そこで人間存在がその具体的なる二重性において把握せらるとき、時間性は空間性と相即し来たるのである。ハイデッガーにおいて充分具体的に現れて来ない歴史性も、隠して初めてその真相を露呈する。とともに、その歴史性が風土性と相即せらるものであることも明らかとなるのである。

人間存在を考察すること、人間存在の重要なファクターである風土性を明らかにすること。

ハイデガーが『存在と時間』にて人間存在を時間性として把握しようとしたが、和辻にとってそれは抽象化された個人にしか焦点を当てない不完全なものであった。和辻は人間の空間的な側面、つまり個人ではなく社会的な側面に目を向けることでより正確な人間存在に近づこうとした。

 

このような和辻の考えはヘーデルからの延長上にある。和辻は風土の問題が歴史家達の中でどのような地位を占めていたかを最終章で振り返る。それによれば、ヒッポクラテスをはじめとする古代人は既に風土の違いに基づく国民相互の違いを認識していたものの、この時の風土はあくまで認識の対象に過ぎなかった。その後、キリスト教による創造主への信仰が続いた時期を経て、16世紀末には自然的素質や風土がもたらす労働の違いによって国民性が左右されると唱えたボダンを経て、へーデルが初めて人の内に現れるものとして風土を捉えた。それは人格を持つ神というよりは生ける有機力なるものだった。かかる存在が人間の精神にどのような影響を与えるのかは今の我々には到底わからないものであるから、へーデルは自然をありのままの姿として捉え解釈しようとすることで、精神と区別しない自然の概念に基づいて個々の国民の価値・個性を明らかにしようとした。それはカントによって学問ではなく詩学だと批判されたりマルクス唯物史観に引き継がれたりしながら、本書を生み出すに至った。

和辻は湿度に注目することで、へーデルによるモンスーン、草原、砂漠の分類による風土的考察を発展したものである。本書ではモンスーン気候は畏怖と慈愛という背反する感情を自然に対して感じるとされている。だが、個人的に中国の人と仕事をした時に感じたことは、彼らは日本人と比べて非常に人工的な感じを好むということである。僕らのように素材の良さを愛でるような感性は感じられなかった。つまり、自然を征服するような草原的な感覚を持っているように感じられた。

 

(67.75h)