ふたしかさを生きる道具
著者の3名は、ぼくと同年代の建築家ユニット。色々な問題意識が共通していたのだけれど、特に共感するのは建築を時空間的な広がりを持つ動的な存在として捉えようとしているところ。僕たちが学び始めた頃の建築は、建築家によって隅々までコントロールされていることが良い建築の必要条件だった。だから、更地に新築して家具も入っていない竣工直後の写真に全神経を注いでいた。この建築像は、ちょうど併読していた《時が作る建築(加藤耕一)》によれば、アルベルティの時間殺しや設計と施工の分離、次世代のパッラーディオらの時代に成立し、20世紀でピークを迎えた。
ツバメアーキテクツが描こうとしているのは、そう言った伝統的な建築像に変わる建築像なのだ。所有関係による分断を乗り越えようとしたり、竣工後のメンテナンスやテナント工事を前提としたり、川上から川下までの流れまでをデザインの対象に据えることで、「再開発的な」建築像そのものを更新しようとしている。
16世紀以降の静的な建築像がある限界を迎えつつあることは間違いないと思うが、この問題を「自分達が生きる環境が自分達とは無関係に決まっているような感覚」という時代のイシューに接続させる論理展開と言葉選びはさすがだと思う。論理展開はさらに続いて311という時代の節目に触れつつ、「行きすぎた産業主義が引き起こした、人間の道具への奴属」こそが現代の問題を引き起こしていると指摘する。僕が知る限りたぶん、最初にこの問題に触れたのはマルクスである。つまり、彼らは数世紀単位での建築的・社会的な視座を意識している。マニフェストはないという書き出しや平陽な文体とは裏腹の、めちゃくちゃアンビシャスな宣言文だ。
だとしたら、彼らの仕事が伝統的な建築家のそれである設計と監理の枠を超えていることは、想像に難くない。この枠を真っ先に切り拓いたのが、OMA-AMOによる設計事務所とコンサルの並走というスタイルだ。第一章で紹介される「デザインとラボの並走」というフレームワークは、いうまでもなくこれが参照されている。もはや参照していない建築家の方が少数派かもしれない。
さらに、菊竹清訓による代謝建築論やアラヴェナ、アトリエ・ワンなど可能な限りの設計論を引き合いに出すことで、伝統的な仕事の枠を越えようとする建築家たちの中に自らを位置付けようとしている。最初から練り上げられた戦略があったというよりは走りながら考えていった実情を隠さず書いているのがなんだか清々しい。笑
巨匠と自分たちを比較する野心的な第一章に比べて、身近な素材で家具を作る話から始まるからか、第二章は等身大のストーリーに感じられる。ところが、読み進めていくと、僕たちが使い慣れてつい多用してしまう均質なマテリアルが、産業主義の権化だと気付かされる。
道具に対するコンヴィヴィアリティ(こういう言葉を使うとそれっぽい)を取り戻すには、不揃いであることに向き合い、川上から川下へと至る資源の流し方をデザインすることが不可欠だ。
後半に登場する「野生的な幾何学」という概念は言葉そのものにも引き寄せられるけど、何より自分達の環境の背景を想像させるような、自然と人工の両方を孕む建築のあり方や、その先に生まれるかもしれない新しい美学に対する野心が表されているのが、良い。第三章ではそれがメンテナンスにも影響することで、時間が場所を豊かにするという建築像へと接続される。
第4章と第5章についてはまた今度。
住宅特集|この先の家に向かって
若手建築家たちの挑戦と副題がついているものの、挑戦的な作品は意外と少ない気がした。
nakanoは、住宅地で容積いっぱいに確保された気積の中に小さくエネルギッシュな塊がぎゅうぎゅうに詰め込まれて場所ができている。解くのではない、形式にも頼らないつくりかた。事務所や作品の規模をどこまで拡大できるだろう?という期待をさせるような作品だと思う。
仁淀川スタッドハウスは社会問題に正面から取り組んでいる(林業の町で川下から川上までを把握して流通させるシステムや作品をつくるという活動は雑誌ではよく見かけるけれど)。ここではshopbotという加工機(VUILDが輸入販売の代理店的な立ち位置をしている?)の活用を前提として、間伐材のみで作っている。人という減っていく資源と間伐材という余っている資源を上手く活用する視点だ。
House in Ba Ria Vung TauとHouse CはASEANでの活動。どちらも正方形グリッドと膜の屋根で展開されるのは、気候や地域性、技術レベルが似通っているからだろうか。
いちこやは東京郊外の戸建て住宅の庭に建てられたはなれ。例えばもっと抽象性が高かったら、より広んな可能性に開かれたものになった気もする。
家と集落は、2階の周りを下野が取り巻くというこの地域の形式を抽象化している。中心性と分散性をもっとメリハリつけると(ヴィラ・ロトンダみたいに)より良かったように思う。
K邸は構造から決まっている感じが清々しい。
角田の住宅は抽象と具象の間を揺れ動く。
地上の家は斜面地をキャンティレバーで解いた住宅。このタイプの歴史をまとめていると面白いかも。
A HAMLETは野地板の隙間から差し込む光がきれい。セルフビルドの施行中、おそらく予算もほとんどないのだろうけど、住めるようになると良い。伝統工法はDIYと相性が良いかも。
梅ノ木の家はもうちょっと構造、構成、仕上げを整えた方が良さそう。
Guesthouse CAMPUSは内装はもちろん照明や什器まで、中心に円を置くという一手に集中して分かりやすい。
新建築2023年12月号
ここ10年くらい、新建築は定期的に木造特集を組んでいる。ざっと過去の履歴を見てみると、木造を集中的に取り扱ったのは2014年11月号が最初で、翌年11月号にはさっそく「木造特集」の副題が添えられ、以降2019年まで10月または11月が木造特集になっている。副題がない年もあるが、内容的には木造特集と言って良いと思う。2020年からは4月と5月のどちらかにも木造特集が盛り込まれるようになっている。それだけ木造の社会的意義が大きいということなのだろうが、中高層木造建築の可能性を力強く解く巻頭論文木造でなければならないことに続く巻頭作品にドイツのル・ベルリエ木造集合住宅が選ばれる所に、欧米に追いつけ追い越せな日本の現状を見る。
表紙の丹波山村役場は人口530人の自治体に総事業費10億円(村民一人当たり200万円近くも負担する計算になる)の建物が必要なのか疑問であるが、木とスチールを調和させる架構やプロポーションは出身の内藤廣さんを連想させる。筆頭設計者は多分唯一の同世代だ。
銀座高木ビルはアトリエによる在来工法の工夫、野村不動産溜池山王ビルは大手ゼネコンの認定技術の事例である。潮騒レストランは巨匠アトリエが継続的に行なっている部材の開発が背景にある。
木造特集を眺めると、必ずと言って良いほど構造表現主義的な表現、行き場のない地場材の活用、SDGs、アトリエの工夫/ゼネコンの技術と行ったトピックになる。今回も同じような印象だった。
新建築2023年11月号
今月号はコミュニティをつくるという建築の可能性に焦点が当てられている。建築がこういう側面を持つことを知ったのは大学の設計課題を通してである。コミュニティ施設の併設が必須とされた集合住宅の課題では、建築というのは人が集まる場所を物理的に作るだけでなく集まり方にも大きな影響を持つことを、続く中学校の課題では部屋の並べ方や繋ぎ方と教育のあり方が密接に関わることを、それぞれ学んだ。それぞれの課題で新建築を眺めた。
大熊町立学び舎ゆめの森は、地域の生き残りをかけた新しい教育のあり方をつくるという事業者の切実な想いや設計プロセスが素晴らしいと思う。一方で全ての学校がこのようにできるはずもなく、横浜市立汐見台小学校で見られる既存の形式を細やかにアップデートする方法はより汎用性が高いかも知れない。
住宅特集 2023年12月号 「環境住宅」の展開
欠かせない側面になってきたが、全身となる特集は2016年と2018年ということで意外と少ない。外皮性能が仕様とともに記載されている点は有意義だが、全体的にシンプルな箱型が多いのが残念だった。その意味では箱の家170は難波さんが20年ほども前から続けている方法論がますます意味を持っている。シンプルな箱型の新築外断熱に対して、OBの中川さんによる界築の家は改修であるからか同じアプローチとはならず、雁行する内断熱材である。
環境的な側面を何かしら造形・空間に結びつけようとしているという点では、屋内庭のある家が地域の気候も踏まられている。批判的地域主義的かつ批判的環境主義的。オキヤネの家は屋根をダブルスキンにすることの温熱環境的な意味は理解できるものの、空間が変わるともっと良かった。建軍の家は空間的なアプローチがなされているが、平面が910ピッチだけにとどまる辺りもう少しスタディできたのではという気がした。
堀部さんによる軽井沢の家Ⅻは作風が確立されているだけに特徴がよく分かる。
メタル建築史
近代建築史の最も重要な素材を一つあげるなら、ほとんどの人がコンクリートを選ぶだろう。コルビジェのサヴォワ邸から安藤忠雄の住吉の長屋まで、近代建築のメルクマールとなったコンクリート造の作品は枚挙にいとまが無い。そういった歴史認識に対して、副題で「もうひとつの近代建築史」と謳う本書では、近代建築史の主流が傍に置いていた金属の建築が紡いできた歴史に焦点を当てている。
その中心となるのは鉄骨造である。近代の幕開けと共に主要な建材の場に躍り出て以来、初期の造形性が着目された時代から伝統的な美学に基づいた重厚なミース時代を経て、軽快な構造に発展して来たストーリーが描かれている。欧州で古来から主要な素材であり、常に重厚な存在であり続けてきたコンクリートとは対照的に描かれている。
こうした事実を拾い上げることが本書の目的の一つであるが、もう一つの目的は、傍流として退けられたメタル建築こそが、サステナブルデザインの時代となる近未来の建築では主流になるという仮説を提示している。著者がこのように考える根拠はメタル建築の軽い構造にあるようだ。
重いコンクリート建築/軽い金属建築という線引きをした建築史の代表例には「テクトニック・カルチャー」が挙げられる。本書に照らすと前者がステレオトミックなもの、後者がテクトニックなものに該当するだろう。両者の弁証法の結果としてテクトニックな近代建築に辿り着くという近代建築史観は、フランプトンなりのメインストーリーに対するオルタナティブである。
オルタナティブ・ストーリーとしての建築史には「錯乱のニューヨーク」を挙げる必要がある。こちらは「人間の理念がモダン・デザインが発明した」というメインストーリーに対して「近代建築は人間の欲望と資本主義の原理により誕生した」というオルタナティブである。
以上はどちらも近代建築史観のオルタナティブであるが、建築史観そのものを改めようという試みもある。それが「リノベーション建築史」である。
住宅特集2023年9月号
NOA A HOTEL ANY WHEREは部屋毎に移動する、トレーラーハウスの作品。アーキグラムのウォーキング・シティやプラグイン・シティが建築レベルで実現しようとしている例かも知れない。可動性がプログラムの変更を容易にするという発見がなされている。その可能性は、サブスク利用とすることで実現可能性が高められている。都市ではなく建築単位で可動性を持つと、数十年単位で行われている都市の盛衰が数ヶ月単位に縮まり、都市のダイナミズムはとてつもなく早いサイクルになる気がする。そういう可能性を感じさせる。
苔庭の家の、万華鏡の家を思わせる六角形のプランは、周りを木々に囲まれた別荘ならでは。
めぐりめぐらすは、何の変哲も無い老朽化した建物が、旧・五島教会の踏襲や、コルビジェのオマージュといったコンテクストを挿入されることでゲニウス・ロキを纏い、意図のある作品に昇華されている。
林の中の4枚屋根は、シェアハウスのような独立性の高いプランが良い。というか好き。