建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

新建築2023年12月号

ここ10年くらい、新建築は定期的に木造特集を組んでいる。ざっと過去の履歴を見てみると、木造を集中的に取り扱ったのは2014年11月号が最初で、翌年11月号にはさっそく「木造特集」の副題が添えられ、以降2019年まで10月または11月が木造特集になっている。副題がない年もあるが、内容的には木造特集と言って良いと思う。2020年からは4月と5月のどちらかにも木造特集が盛り込まれるようになっている。それだけ木造の社会的意義が大きいということなのだろうが、中高層木造建築の可能性を力強く解く巻頭論文木造でなければならないことに続く巻頭作品にドイツのル・ベルリエ木造集合住宅が選ばれる所に、欧米に追いつけ追い越せな日本の現状を見る。

表紙の丹波山村役場は人口530人の自治体に総事業費10億円(村民一人当たり200万円近くも負担する計算になる)の建物が必要なのか疑問であるが、木とスチールを調和させる架構やプロポーションは出身の内藤廣さんを連想させる。筆頭設計者は多分唯一の同世代だ。

銀座高木ビルはアトリエによる在来工法の工夫、野村不動産溜池山王ビルは大手ゼネコンの認定技術の事例である。潮騒レストランは巨匠アトリエが継続的に行なっている部材の開発が背景にある。

木造特集を眺めると、必ずと言って良いほど構造表現主義的な表現、行き場のない地場材の活用、SDGs、アトリエの工夫/ゼネコンの技術と行ったトピックになる。今回も同じような印象だった。

新建築2023年11月号

今月号はコミュニティをつくるという建築の可能性に焦点が当てられている。建築がこういう側面を持つことを知ったのは大学の設計課題を通してである。コミュニティ施設の併設が必須とされた集合住宅の課題では、建築というのは人が集まる場所を物理的に作るだけでなく集まり方にも大きな影響を持つことを、続く中学校の課題では部屋の並べ方や繋ぎ方と教育のあり方が密接に関わることを、それぞれ学んだ。それぞれの課題で新建築を眺めた。

大熊町立学び舎ゆめの森は、地域の生き残りをかけた新しい教育のあり方をつくるという事業者の切実な想いや設計プロセスが素晴らしいと思う。一方で全ての学校がこのようにできるはずもなく、横浜市立汐見台小学校で見られる既存の形式を細やかにアップデートする方法はより汎用性が高いかも知れない。

住宅特集 2023年12月号 「環境住宅」の展開

欠かせない側面になってきたが、全身となる特集は2016年と2018年ということで意外と少ない。外皮性能が仕様とともに記載されている点は有意義だが、全体的にシンプルな箱型が多いのが残念だった。その意味では箱の家170は難波さんが20年ほども前から続けている方法論がますます意味を持っている。シンプルな箱型の新築外断熱に対して、OBの中川さんによる界築の家は改修であるからか同じアプローチとはならず、雁行する内断熱材である。

環境的な側面を何かしら造形・空間に結びつけようとしているという点では、屋内庭のある家が地域の気候も踏まられている。批判的地域主義的かつ批判的環境主義的。オキヤネの家は屋根をダブルスキンにすることの温熱環境的な意味は理解できるものの、空間が変わるともっと良かった。建軍の家は空間的なアプローチがなされているが、平面が910ピッチだけにとどまる辺りもう少しスタディできたのではという気がした。

堀部さんによる軽井沢の家Ⅻは作風が確立されているだけに特徴がよく分かる。

メタル建築史

メタル建築史 (SD選書268)

近代建築史の最も重要な素材を一つあげるなら、ほとんどの人がコンクリートを選ぶだろう。コルビジェサヴォワ邸から安藤忠雄住吉の長屋まで、近代建築のメルクマールとなったコンクリート造の作品は枚挙にいとまが無い。そういった歴史認識に対して、副題で「もうひとつの近代建築史」と謳う本書では、近代建築史の主流が傍に置いていた金属の建築が紡いできた歴史に焦点を当てている。

その中心となるのは鉄骨造である。近代の幕開けと共に主要な建材の場に躍り出て以来、初期の造形性が着目された時代から伝統的な美学に基づいた重厚なミース時代を経て、軽快な構造に発展して来たストーリーが描かれている。欧州で古来から主要な素材であり、常に重厚な存在であり続けてきたコンクリートとは対照的に描かれている。

こうした事実を拾い上げることが本書の目的の一つであるが、もう一つの目的は、傍流として退けられたメタル建築こそが、サステナブルデザインの時代となる近未来の建築では主流になるという仮説を提示している。著者がこのように考える根拠はメタル建築の軽い構造にあるようだ。

 

重いコンクリート建築/軽い金属建築という線引きをした建築史の代表例には「テクトニック・カルチャー」が挙げられる。本書に照らすと前者がステレオトミックなもの、後者がテクトニックなものに該当するだろう。両者の弁証法の結果としてテクトニックな近代建築に辿り着くという近代建築史観は、フランプトンなりのメインストーリーに対するオルタナティブである。

オルタナティブ・ストーリーとしての建築史には「錯乱のニューヨーク」を挙げる必要がある。こちらは「人間の理念がモダン・デザインが発明した」というメインストーリーに対して「近代建築は人間の欲望と資本主義の原理により誕生した」というオルタナティブである。

以上はどちらも近代建築史観のオルタナティブであるが、建築史観そのものを改めようという試みもある。それが「リノベーション建築史」である。

住宅特集2023年9月号

NOA A HOTEL ANY WHEREは部屋毎に移動する、トレーラーハウスの作品。アーキグラムのウォーキング・シティやプラグイン・シティが建築レベルで実現しようとしている例かも知れない。可動性がプログラムの変更を容易にするという発見がなされている。その可能性は、サブスク利用とすることで実現可能性が高められている。都市ではなく建築単位で可動性を持つと、数十年単位で行われている都市の盛衰が数ヶ月単位に縮まり、都市のダイナミズムはとてつもなく早いサイクルになる気がする。そういう可能性を感じさせる。

苔庭の家の、万華鏡の家を思わせる六角形のプランは、周りを木々に囲まれた別荘ならでは。

めぐりめぐらすは、何の変哲も無い老朽化した建物が、旧・五島教会の踏襲や、コルビジェのオマージュといったコンテクストを挿入されることでゲニウス・ロキを纏い、意図のある作品に昇華されている。

林の中の4枚屋根は、シェアハウスのような独立性の高いプランが良い。というか好き。

 

建築の7つの力

提示される7つの力の最初が「連想の力」なんだけど、本のタイトルからしてジョン・ラスキンの『建築の七燈』を連想させる。ちなみに他の6つの力は数の力、ゴシックの力、細部の力、模倣の力、地霊の力、過去の力。

kenchikusaisei.hatenablog.com

はじめから建築の本質のようなものをまとめるべく書かれた『建築の七燈』に対し、本書は別の場所で公開された原稿を集めて編集された本である。まえがきによると著者はそれぞれ独立した機会の中に、著者なりに脈絡をつけながら書いたらしく、ある程度の期間をかけて自分なりの建築観のようなものをまとめていたのだろうか。

その建築観は、端的に言えば「建築に時間と場所性を取り戻す」だと思われる。生き物は全て「今ここにいる」という存在であるが、著者が言うように、自分のいる点から無限に時間と空間を拡大して領有できるのは、人間が想像力を持っているからである。建築に時間と場所性を取り戻すことは、人間が人間たる所以である、想像力に関わることなのだ。

 

ちなみに鈴木は本書で昭和59年(1984年)に芸術選奨新人賞を受賞している。

また、たしか青木茂の活動をリファイニング建築(当時はリファイン建築)と命名した他、青木茂の博士論文の副査であり、難波和彦さんに主査をするようアドバイスしている。

http://www.kai-workshop.com/diary/diary.cgi?move=201802

 

現代建築愚策論

初版は1961年であり、収録されている原稿は1958年から60年にかけて建築雑誌に発表されたものである。タイトルから執筆当時の愚作について書いているのかと思っていたが、実際は当時都市に生まれていた建築の新しい巨大さを示しつつ、そこに(フリーランスの)建築家が切り込むべきだという主張が述べられている。

建築家が社会の重要な変化を見逃したり目を背けて前時代のテーマに囚われ続けながら自嘲的に「建築家は儲からない」とか「施主の理解が得られない」とか言っているのは、今日でも同じである。建築家の職能がアトリエの「マスプロ型」と組織の「デラックス型」に分離し、現在は表層を前者が、深層を後者が担う事例が多い点まで含めて、末尾で藤村さんが解説している通りである。

 

一方で、小住宅は八田が言うように決められた間取りを繰り返しに過ぎないのだけれど、小住宅は相変わらず建築家の主要なテーマである事は変わらないとも思う。「小住宅ばんざい」の直後に発表された中野本町の住宅、塔の家、住吉の長屋などいくつかの住宅は、若い個人の施主や建築家が、彼らには扱えない巨大な都市のダイナミズムに抗ってサバイブするための砦としてつくられている(と僕は理解している)。

現代建築愚作論

 

(230928追記)

巨大な都市の荒波を航海する大型化するゼネコンや大型設計事務所とは対照的に、個人の建築家として活動していくことの決意表明のようにも見える。のちに磯崎は挫折して都市から徹底するのだけれど。

僕たちの世代は彼らの世代の背中を見て個人の「アトリエ」を掲げる意味がどこまであるのか、考えないといけない。

 

途中だけどいったん公開。