広場の造形
執筆されたのは機械化が進む19世紀末のイギリス。ラスキンの『建築の7つの燈』とほぼ同時期である。
主題はラスキンの書物と同様、急速に発達する技術が変化させる環境を如何に上手く制御するかである。
訳者の後書きによると、ジッテは19世紀半ばのウィーンに建築家の息子として生まれ、ウィーン工科大学で学んだとのことだ。父親のパートナーとして働いた後は国立工芸学校の初代校長を務め、都市計画を総合芸術とみなしたらしい。要はエリート教育を受けた都市計画の大家だ。
この頃のヨーロッパは急速な産業の発展に伴い、パリのオースマン計画などの大掛かりな都市の改造が行われていた。これらの都市計画が実用性を全面的に優先していたのに対して、ジッテは美観の重要性を指摘する。
ジッテもラスキンも古代や中世の建物や広場を観察・分析したことは共通するが、ラスキンが古き良き時代に遡及しようとしたのに対して、ジッテは芸術(過去)か技術(未来)かの2者択一ではなく両者の折り合いをつける道を探ろうとした点に、両者の違いがある。