建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

建築の多様性と対立性

スカーリ教授は、ル・コルビジェを絶えず参照しながら、ヴァンチューリの反英雄的で包括的、反語的、歴史主義的な思考の見取り図を完璧なまでに描き切っている。加えて(略)『ラスベガス』との相補関係にまで触れている。

 

恐らくこの本は、1923年のル・コルビジェ著『建築を目指して』以降、建築について書かれた著作のうち最も重要な汗なのである。

 

『建築を目指して』においては、(略)建築にも、また都市全体にも、高貴な純粋主義が求められている。一方、本書においては、あらゆるスケールの都市的事象の多様性と対立性とが賞揚されている。

 

コルビジェの偉大な教師は、ギリシアの神殿、即ち、景観の中にひとつポツンと存在する白い軀体と、陽光の下に確としてある輝かしい厳粛さとを合わせ持つ、それであった。(略)一方、ヴェンチューリにとってのインスピレーションの源は、(略)イタリアのファサードである。そこには内部と外部の果てしないつじつま合わせが、そして日々の生活の種々の様相を反映する屈曲が認められる。それは、(略)道や広場を規定し、もしくは内包する、複雑で空間的な性格をもったものである。そうしたつじつま合わせはまた、ヴェンチューリにとっても、より包括的な都市の原理となっている。彼はここにおいて再度コルビジェと似ていると言えよう。つまり、両者とも深い意味で視覚的で造形的な芸術家であり、彼らの場合、個々の建築物に焦点を絞る際に、都市全般に対する新たな視覚的、象徴的考察ー大多数の建築家が陥りがちな図表的、平面図的な見方でなく、一揃いの具体的でまとまりのあるイメージ、原寸の建築それ自体ーが失われていないのである。

しかし、(略)コルビジェは(略)デカルト風の厳格さと称される面を表出しつつ、(略)明快で包括的な図式を提出している。一方、ヴェンチューリのやり方は、もっと断片的であり、より折衷的な関係を通して段階的に進んでいく(略)。既存のものに敬意を払い多様性を認めた上での彼の建築は、今や多くの都市を壊滅の危機に晒し(略)ている純粋主義に対する最も有効な解毒剤となると、私には思われる。今の世には(略)英雄的な幻想が蔓延している。思うにヴェンチューリはそれゆえ、執拗なまでに反英雄的であり、至るところに含みを持たせた反語を散りばめて、自らの主張をわざと穏和なものにしているのである。

 

すべての独創的な建築家がそうであるように、ヴェンチューリは、私たちに過去のものを見直させてくれる。

そういう意味で、ヴェンチューリは、彼自身の反語的な否認にもかかわらず、ファーネス、ルイス・サリヴァン、ライト、カーンといった人たちの伝統を受け継いで、その作品が悲壮なまでの地点に到達していると思われる、数少ないアメリカの建築家の一人である。彼の存在は、あるひとつの場所に居住しつつ、次第に重要性を帯びていく、継続する世代の力というものを示唆している。フィラデルフィアがまさしくそうなのである。

 

ヴェチューリのデザインと思想が人間的なものであることは大切な点である。(略)おそらく彼はポップ・アートの形態の意味や有用性を感得しえた最初の建築家であると思う。

 

いずれ本書は、建築の基本文献のひとつとして数えられるようになると、私は確信する。

 

意味形態を分つことはできない作用因子は記憶である。感情移入にせよサインの認知にせよ、学習によって得られる反応であり、文化に固有の経験の結果として得られるものだからである。(略)芸術作品を作り、味わう際にはどんな場合でも幾らかは必要なものである。

この意味で、建築を作ったり味わったりすることは、常に批判的ー歴史的な行為である。

著作は、まさに以上のような線に沿って書かれたものだ。(略)まず本書は、(略)形態に対する身体的な反応を探究しており、ゆえに、方法として感情移入の方を取っている。(略)『ラスベガス』は芸術におけるサインの働きをまず第一に扱っており、ゆえに、その探究の方法は言語学的である。