建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

コラージュ・シティ

前半は建築史や都市史を俯瞰しつつ、近代建築による近代都市の提案はいずれも実現しなかったと批判史、さらに技術進化を即座に人類の進歩とつなげる近代の精神をも批判する。近代と対をなすものとして伝統が引き合いに出されるが、伝統回帰を主張する訳ではない。近代=技術進化は挫折したが伝統回帰する訳にも行かないところで、ロウは二つを衝突させて扱おうとする。ゼロから何かを作るのではなくありあわせの道具で作り出そうとするブリコラージュの姿勢。

そもそも近代建築とは「建設にあたって本来は未来が明らかにするはずのより完璧な秩序を現在もたらそうとする態度」を指すが、このような態度が生まれたのは「歴史は神の意思に従って予定調和的に進行している」というヘーゲル的な認識から派生した、都市や建築は合理的に計画できるという信仰が元になっている、とロウは主張する。

その信仰のもと、未来派コルビジェは半永久的な理想郷を一瞬で計画して建設できるという理想主義的な都市像を描いてみせた。近代が絶頂だった時期なのだけれど、この時期ですら近代建築や近代都市は建設されていないことを指摘する。続くアーキグラムやチームⅩは未来を夢見るSF派に浸るだけでなく、過去に遡るタウンスケープ派との間を往復しながら両者の統合を試みるようになった。さらに次の世代では、スーパースタジオが均一な空間を作ることで偶然性を期待し、ヴェンチューリは後者は不均一な空間を作る事でハプニングを演出するなど、「計画」から離れ出す。だがどちらもマルクスのように下部構造によって上部構造を制御しようとした点で、どちらも行き着く先は暗い。

 

建物は合理的に作られるようになるだけでなく、交通網が発達したことで内部の都合で作られるようになった。その結果、空間が建築における主要な地位を占めるようになり、都市の母体がソリッドからヴォイドになった。また、トータル・デザインによる単体建築へのこだわりが生まれ、建築はオブジェクトであることを志向するようになった。このようにしてオブジェクトとヴォイドが増殖する時代が到来したが、その現地をうまくまとめる方法をまだ持っていない。

ここで、ロウは「外部空間は公的オープンスペースであるべきだ」という教義を捨てることを提案する。ヴァザーリ、ペレ、アスプルンドの都市計画をコルビジェのそれと比較しながら、理想形を歪めるというアイディアにたどり着く。地と図、密と疎の弁証法、計画と偶然の共存が可能になるように見えてくる。

 

ハリネズミ」のルイ14世が作った一元的で専制的なヴェルサイユと、「キツネ」のハドリアヌス帝が作った多元的で民主的なローマ。前者には合理的に秩序づけられた科学的な社会という神話が見え隠れする。が、その科学性の正体とは、出現を妨げる術がないことから絶対的な価値を持つ未来に対して、自分で決断をすることから逃れるための口実だとロウは断罪し、そもそも歴史が「前進」するとか社会が「成長」するという考えにすら疑うの目を向ける。こうしてロウは千年王国ユートピアに決別を宣言する。

歴史や技術に対する崇拝からの脱却、政治的な手続きは円滑でも予測可能でもないと理解すること、全ての建物を建築作品としなければならないという考えを捨てること。政治的にも都市計画的にも、問題の与件が揃ってから解決に取り掛かるという状況は、ほぼない。であればブリコラージュ的に取り組んでいくしかない。ブリコラージュ的な方法を、科学的な(=エンジニアリング的な)方法と共存させ、論理的な文明と飛躍連想的な野生に同等の価値を認めること。

社会工学とトータル・デザインによるアーバニズムにとってかわる存在として、古代ローマを位置付ける。そして、碁盤の目状の私有地と不規則的に走る川や家畜道などが重ね合わせれた、ローマ・ロンドン・モデルへ。

 

建築物の<衝突>だけでなく、心理的、時間的な<衝突>。

20世紀の建築と都市計画は、現象は本質を正しく表象するという信仰のもと、様々な文化上の幻想を破壊して合理性を普及させた。都市が布教活動の道具としての機能を帯びてしまうなら、いかに適切な議論を産出しうるか。その鍵となるのが伝統とユートピアである。

ユートピアは20世紀初頭に様々な形で描かれたものの成果は得られなかったし、世界は計画できるという前提に立つが故に寛容性を持たない専制的な世界を志向してしまう。一方で、伝統も科学のように社会構造にある種の秩序を作り、時代によって変化する我々の認識が存在するというカール・ポパーの批評を参照する。

未来の形態は未来の理念によって決定されるならば、現在予測するべきではないのであって、それゆえに、ユートピア主義や歴史主義(略)は、進歩的な改革や真の意味での解放を制限する方向でしか機能しないことになる。

このようにユートピアも伝統も完全ではない。が、ユートピアは政治的には不条理であものの、(特に旧約聖書の影響下にある場所では)生活に強く根付いているから人間の精神には必要であり、批判的に取り入れる必要があるとロウは述べる。

では伝統とユートピアをどう扱うのかという問いに、「博物館都市」というキーワードを導入する。多様性を享受、足場と展示物?近代建築はそれ自身が展示物であり、同時に偶然の出来事(展示)に先立ってそれを制御する足場でもあるという立場だった。<足場>と<オブジェクト>、<構造>と<出来事>の間に交流の可能性をいっそう探究する。

「精神的本質から物質的実体へ」というヘーゲルのテーゼのマルクス的な変換(略)こそ、ありきたりの経験主義の常識的で(陳腐な)価値観とまたたくまに結びついて、至福千年的な興奮にあおられて、建築家にとっての、近代の伝統を構成することとなった

近代建築は(略)美術用語を用いて社会や都市について語るのをその特徴としていた。しかし、(略)そのような<基本>原則との杓子定規な連繫の必要性はたえて感じられることがなかった。

コラージュ(略)こそ[今日では]ユートピアと伝統の(略)問題を取り除いてくれる

 

以上、読書メモ。