建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

住宅特集2021年1月号 住宅のこれから

総括で議論されていた、歴史性や社会性を踏まえた意味論的なものの見方とそれらをキャンセルした動物的なものの見方という対比は、自分としても興味を持つところ。再生建築では時間の経過によって竣工当時の意味が失われてしまった形を活用することが大なり小なり前提となるように思う。つまり、時間を経たからこそ可能になる動物的なものの見方があり得るのではないかということだ。そして、それはそれで新しい意味を帯び始める。そうして再生でしかできない意味論かつ動物的な建築があり得るのではないか、なんて思っていたりする。その辺りは巻頭対談建築の想像力での「形式は永く、世は流転する」という青木さんのコメントにも通じる。

SHOCHIKUCHO HOUSEFは強い形式性を持つ点が共通点であるが、2人が指摘し合うようにそのあり方は対照的である。形式は人の思考を遠くに飛ばしてくれる素晴らしい道具だとは思うけれど、形式を成立させることが目的ではないし、形式を表現することが目的でもない。はず。形式を用いてどこまで快適な建築を作ることができるのかだ。(快適性をもたらす要素が時代によって異なるであろうことや、快適性が建築を作る目的で本当に良いのかは置いておく。)

24mm合板の家を作った竹口さんと山本さんは窓辺建築に継続して取り組んでいるみたいだ。

京都のアトリエ/住居は京町屋の形式をアトリエ付住宅に転用しようとしたもの。新築住宅では最大規模とのことで、次は住宅以外の用途で島田さん的な形式(軸振りのスキップフロア)がどのように展開されていくか楽しみ。

品川の家はセットバックしながら箱が積層されるが、それによって生まれるバルコニーや外部との関係性が誌面からは読み取りづらかった。それよりも内部が吹き抜けによって連続しつつ柱によって分節されている状況の説明に誌幅が割かれている。

谷中の公園のとなりは谷中で活動してきた設計者の自邸で、谷中という土地柄なんでもかんでも自分で所有するよりもシェアしあって片寄あいながら暮らす人が多い土地柄なのかと思う。所有の境界に揺さぶりをかけようとする姿勢は共感する。

桜尾の座席はネコと触れ合うためのはなれとのことだ。地面から建ち上がる白い構造と、それにぶら下がる木の構造という形式をストレートに表現しようとしている。同時にものの存在をそのまま表そうとしている。鶏小屋みたいな金網は快適なのだろうか。
アマカスハウスは形式に替わる創造手段として応答体なる概念を導入することを試みている。空間からモノのテクトニクスに回帰しつつ、コンテクストと形の応答を積み重ねていくような作り方だ。

 

(2.5h)