建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

新建築2020年06月号

オンライン授業の課題と可能性

少しづつ集まり方のあり方が試されている.対面で伝え合えることとそうでないことの違いを探りながら試行錯誤がなされているが,建築の教育や実務における大きな変化は,コミュニケーションの道具が実空間のモノから画面の中のデータに変わったことである.モノを介した従来のやり取りではスケール感が大きな役割を果たしたのだけれど,今後は寸法感覚とプロポーションが重要になってくるのではないかという気がしている.

また,ライノなどによるパラメトリックデザインの登場は,模型を作って眺める作業を指先での一瞬の作業に置き換えてしまい,仮説の構築⇄検証の反復がより高速になるはずだ.大量の模型を作るSANNA的体育会的な方法の次の設計法をどう作り出せるだろうか.スタディのツールがモノからデータに変わっただけで結局は徹夜している,というようなやり方とは違ったスタイルが生み出せないものだろうか.

 

四日市市中央緑地スポーツ施設熊本城特別見学通路は既存の文脈を縫うように線状の要素が差し込まれている。北上にっこり地区拠点施設東日本大震災の跡地の開発をオープンスペースが繋がり、各敷地の中をストリートが繋ぐ。熊本都市計画桜町地区第一種市街地再開発事業は現地を見て熊本城をレファレンスしている事が感じられたが、郭のビジュアルをそのまま取り入れるだけでなくデザインの意図を継承するとより良かったのかも知れない。読売テレビ新社屋は基壇ー中段ー棟頭の3段構成で角度を変えている。

東レ未来創造研究センター融合研究棟桜美林大学新宿キャンパス百年記念館 GLURY Collaboration Hubなどはオフィス・学校空間に憩いの場を作ることで作業効率の向上よりは創造性をもたらすきっかけを生み出す試みが共通している.作業効率の良い空間を作ることから憩いの場所を作ることにトレンドがシフトしているのは事務所ビルも同様である.ミクシ本社TRI-AD日本橋オフィスpoint 0 marunouchiは,剥き出しの天井+木の床や内装+家具のような什器+緑が共通していて,最近のよくあるイケてるオフィスはどれもこんな感じである.結局は集まって何かをつくるという本質は変わっていないように思う.家のような空間にするなら家で仕事をすればいいし,色んな内装を作るなら色んな場所に出かけて仕事をすればいいだけのような気がする.まごころ学園は雁行した平面計画が様々なニッチや色壁を作る.

下高井戸の産婦人科古澤邸同様にRCのラーメン架構と,それから自由に展開される平面という形式がとられている.この形式が強く存在感を持つことで病院という機能から形が自由になっているように思われる.実際,この形式は古澤邸と同じものであり,異なる用途で同じ形式が通用している.古澤邸の住宅建築賞の講評で「構成のための構成ではないか」と述べられていた批評はこの作品にも当てはまるかも知れない.

ミノワ座ガーデンは特養老人ホームの改修である.工事の内容は敷地境界の塀を撤去して開放的な屋外空間を作る行為と,入居者が利用するベッド間の間仕切り壁の改修の2点.どちらも人間同士の繋がり方の調整である.ツリー型の組織を管理するのではなく,セミラティス型の集まりを一緒に作っていくようなイメージか.ロッジアは確か卒論の頃から掲げ続けているテーマではなかったろうか.

 

 

ルイス・カーン建築論集

ルイス・カーン建築論集 (SD選書)

西洋の文化は,世の中は単純で美しい法則で動いているという信仰に基づくギリシャ哲学と,世界の創造主を前提とする一神教キリスト教)のハイブリッドだと思っている.言い換えれば,ギリシャ哲学とキリスト教を両輪として「全知全能の神が作った究極に合理的な宇宙の法則」を追求してきたのが西洋の科学・歴史だと思っている.

その意味で,カーンの建築思想は正統的西洋的世界観に基づいた建築観であるように思えてくる.カーンがクリスチャンだったかどうかすら分からないけれど,「宇宙の真理を知り,その合理的で美しい唯一の法則を感じ取り,自分も世界を記述する」と言う思考はギリシア哲学的かつキリスト教的な世界観に裏付けられた創作活動に特徴的な姿勢だと思う.世の中には真理があることを信じていて,建築を通して心の中にしか存在しないイデアを実在に置き換える事が目指されている. *1

そういった部分を最も強く感じさせるキーワードが元初(beginnings)である.カーンの建築思想で最も重要な概念であり,これをこそカーンは追及し続けてきたのではないかと思う.DNAのようなものと捉えたら良いだろうか,注釈にはこうある.

元初(beginning)とは単なる出発点(start)ではなく,ある事柄の始まりであると同時に初めから支配しているものである.

 

藤本壮介がカーンが好きと書いていた文章をどこかで読んだ記憶があるが,ひとつの原理を展開させて全体像を作る彼の形式的な発想は,カーンの言う元初のようなものだとみなす事ができるかもしれない.ただ,藤本さんは原初的(primitive)と言う言葉をよく使う.これはカーンの元初(beginning )よりは人間が洞窟に住んでいた時の記憶とかに近い気もする.

 

カーンが根源的なものを追及していた事を窺わせる言葉が他にもある.光(light)沈黙(silence)は,末尾の解説によれば,光とは「存在としての存在(自然の事象)」であり,沈黙は「表現することとして在らんとする願望(人間の事象)」である.*2

光は沈黙へ 沈黙は光へ(Light to Silence, Silence to Light)とあるように,光と沈黙は2つでセットで意味をなす.脚注にはこうある.

物質の中の美は驚異とその後の知に置いて了解される。了解される事で美を表現したいと言う願望に変換される。この2つの移行が交錯する場所が閾である。「自然はルームを作りません」とあるように、宇宙の原理に感動して美を表現したいと願う人間の感情と創造を重視している。

要は「人間が自然を見て美しいと感じるのは宇宙の真理に触れたからであり,それを理解して使いこなすことで美しいものを作りたい.また,その事によって宇宙と1つになりたい」という人間の根源的な,そして人間に固有の(とカーンは考えていたと思う)願望そのものである.*3

この願望を満たす媒介としてカーンは建築を捉えていたのではないだろうか.内藤廣さんが「デザインは翻訳だ」と言っていたけれど,カーンにとっての建築は,神の意思たる宇宙の法則を翻訳する作業なのかも知れない.

 

このように,カーンの建築観は

  1. ギリシャ哲学とキリスト教を背景とした,創造主によるシンプルで美しい秩序への信仰
  2. その秩序への感知と,その秩序を理解して正しく運用することで表現すること,またそのことで宇宙と1つになること*4

という点に特徴がある.

「秩序を表現する」とは,目に見えないものを目に見えるようにするということである.目に見えないものとは精神的・概念的・理想的なものであり,心(mind)の中にあるものである.目に見えないものとは身体的・実在的・現実的なものであり,現実の世界にあり実際に触れうるもの(the tangible)で会う.カーンは前者を存在(experience )と,後者をプレゼンス(presence)と表現する.

 

 

そういった世界観を持つカーンにとって,建築やデザインとは「心の中にしかない存在にプレゼンスを与える作業」なのだ.*5*6

カーンの言葉を借りれば,デザイン(design)とはプレゼンスへと向かう事であり,フォームを存在へと導くこと.フォーム(form)とは不可分な構成要素のリアライゼイション・統合であり,本性のリアライゼイションである.*7フォームを具体の形に還元したものがシェイプ(shape)である.

 

そのような方法論に基づいて具体的に建築を作る手法として一番基礎になるのが,ルーム(room)の概念だ.

「ルームは建築の元初でした(the room was the beginning of architecture )」

「平面図はルームの共同体である(a plan is a siciety of rooms)」

と言っているように、建築の単位みたいなもの.篠原一男が日本の建築が分割型であったことに対して西洋のそれを連結型であると分析していたことを思い出す.また、パンテオンを例にあげながら

「自らの広がりと構造と光をもつルームのなかで、人はそのルームの性格と精神的な霊気に応答し・・・」

と言うように、スケール、光、構造(形状)が重要な要素である.

 

 

ちょっとここで力尽きたので,他のキーワードをメモ.

ジョイ(joy):創造の本質(essence of creativity),創造の力(force of creativity),湧出するもの(ooze) 

心(mind)、頭脳(brain):心は直感の所在地であって,頭脳は道具.

リアライゼイション(realization):本性であるフォームのリアライゼイション.

アヴェイラヴィリティ(availability):人々の表現衝動の達成を可能にさせる,本体の適用性,有用性.人が生きる意味を表現と考えている.

インスティチューション(institution):直訳は施設、制度.フォームにその現れとしての元初的意味が賦与されたもの.

表現することとしてあらんとする願望(desire to be / to express)

 

(読書時間:10時間)

*1:オーダー:自然界の原理.あるものの本性.

*2:沈黙(silence): 表現者、測りうるもの、表現しようとする意志(desire to express )、出現せんと望むもの。ピラミッドを通過する時に人が得る、ピラミッドがいかに作られたか(何かそれをあらしめたか、ピラミッドの形成を引き起こした力が何であったか)を自ら告げようとしているのを感じるような感情。表現することとして在らんとする願望(desire to be / to express )ともある.

*3:ちなみに沈黙の本質的な性質の一つとして指摘されているのが共同性(commonality):人が所有権を主張できず,すべての人に属するものである.

*4:根底的なインスピレーション(foundamental inspilation ):沈黙と光が出会う閾における元初の感情。

*5:そして,その作業で最も重要な要素が,カーンが「全プレゼンスの賦与者」という文字通りの光だ.

*6:あるものにプレゼンスを与える際に<自然の摂理>を必要とする.従って素材の特性を聴く事は必須となる.

*7:「イグジステンスをもつが、プレゼンスを持たない」とあるように、心の中にあるもの.

住宅特集200年6月号

巻頭論文リノベーションの点と線は、近現代の建築が新築と保存の二項対立に陥っている点を批判し、改修工事を再開発・再利用・文化財の3つが複合した行為として捉えようとしている。点としての建築家への評価と、線としての建物の評価。特集記事戦後リノベーション史は戦後に掲載された改修作品を網羅した点に最も価値がありそう。接客の時代へというタイトルで住宅史が家族と接客の狭間で揺れ動いてきたと藤森さんは指摘するが、これからはいかにネット上で住宅を開くか・閉じるかも考えなきゃならなくなりそう。

 

今月号はテキストに読み応えがあった一方で、作品は現しの既存軸組と特殊な一手の組み合わせというルールの中でのリノベ大喜利みたいな印象を覚える。まだまだ開拓の余地はこれからなのだろう。

 

保育園の家は工場として使われていた既存の加工が軽快。保育園は住宅よりも耐震性に気を使わなきゃいけないと思うのでちょっと心配。工場に家は倉庫(的な)鉄骨蔵の中に木軸を入れ込む構成が延岡の家伊達の家などと共通する。多分2つの外皮に挟まれた中途半端な空間が面白いところだったと思うので、普通に外壁の仕様で納めているのは勿体ない気もした。龍野の文具店みたいに床を減らして軸組を補強して住み継ぐ計画は今後も増え続けるだろうと思う。二本松の農園交流所は農家の改修なのでさらに余った床の処理が問われる。レッドハウスみたいな建て替えまでの繋ぎとしてのプロジェクトも増えている。この計画ではどうせ解体されるからと開き直ることで挑戦的な色使いができているのかな。山と町と庭と家のように唐突に屋外階段を増築する例はSD review 2019 のG町の立体回廊で初めてみた気がする。新築だけど伊達の家もある意味同じかも。西坂部の家は既存と増築の作法が逆転していることで一瞬どこが増築か分からなくなっている。城南の家みたいに敷地内だけでなく周囲の関係も変える可能性は僕も追求してみたい。朝倉の3棟再整備計画は渡り廊下だけで3棟の関係が一新されている。木頭の家は新築当初の屋根形状を復元し、スリットによって小屋裏の足元から光を導いている。狛江の住宅はデッキテラスを増築して駐車場の屋根と屋外リビングを兼用し、庭の盛土により2階と直接行き来できるようにするなど、敷地全体をスキップフロアのように展開している。斜め格子の農家住宅は思いもよらない方法で耐震補強と田の字プランの獲得を両立している。オトヤドイクハはゼンカイハウスばりに補強斜材の存在感があっても良かったりするかもしれない。だぶるすきんの家はかなりアクロバティックなことをしている割には大人しくまとまった印象。改修ならではの建築ができるといいなと思う。

乾久美子建築設計事務所の仕事

たぶん乾さんが自身の建築観みたいなものをかたちづくったのは、芸大に着任して行ったリサーチを行った頃ではないかと思う。

 

リサーチの結果は「小さな風景からの学び」としてまとめられた。

jp.toto.com

 

ギャラ間の展示会ではタイトルにされたばかりでなく、展示会の内容もひたすらリサーチの写真をそこら中に貼るというものだったらしい。

jp.toto.com

 

「小さな風景からの学び」を一言で言えば、

人間が周囲の環境からの恩恵を得るために積極的に働きかける様子は美しい

ということではなかろうか。

 

ちなみに乾さん自身は「恩恵」ではなく「サービス」という言葉で表現している。

 youtu.be

 

乾さんが試みていることは、

人に環境へ働きかけることを促すような、建築の自立性や構造をつくることのようだ。たぶんそれはレヴィ=ストロース上野千鶴子が指摘した空間の「権力」が暴走することを避けるために。

 

自律性的な構造をつくると言っても形式主義的なトップ・ダウンの作り方はむしろ避けられるべきものとして講演会では扱われている。かと言って、部分から出発して最終的に全体像が建ち上がるというボトム・アップを意識している訳でもたぶんない。

乾さんが採った方法は、大きな目的に向かって様々な問題を処理する行為を積み重ねるような方法である。乾さん自身は「小さな計画の集合が形式性を伴った構造を生み出しうる」と説明し、「増築的」と表現している。

 

www.livingculture.lixil

コモナリティーズ

2014年の発行で、たぶんその頃に買った本だと思う。なぜ買ったのかは全く覚えていないし中身もほとんど記憶に残っていなかった。

本の中身を一言で言えば「無人格で均一な個とそれらを束ねる公ではなく人格のある個が社会をつくる方法を考えた」ということなのかな。

 

建築のタイポロジー(長年の反復によって培われた地域固有の理想的な建物のあり方)と人々のふるまい(互いに存在を把握しながら程よい関係性を保つために習得された行動規範)という人間の共有財産に焦点をあて、behaviorology(様々な主体の振る舞いを扱う学問)を考える。人々の振る舞いを生み出す要素(物事の間の相互関連)を人間の共有財産として整理する試み。

 

終戦から東京五輪ぐらいまでは「社会をつくるぞ」という気運があったものの、それ以降はシステムのために人がいるような状態になったことでチャップリンが批判したような人間の疎外が生じた。だからこそ磯崎や篠原が「住宅は建築だ」と言って社会的な文脈から建築を切断させたことは非常に批評性の高いものだった。が、そのゲームもとうにマンネリ化して限界に来ている。そろそろ個に軸足をおいた冒険から別のステージに行くべきではないか。コモナリティはそう言った認識の延長で生じた方向性だと著者は書いている。

共有知を扱おうとしている点は、藤村さんのちのかたちや山道さんの活動にも引き継がれているように感じる。そう思うと東工大の中で先代を批判的に乗り越えようとする意識が脈々と受け継がれているようにも思えてくる。

建築家・坂本一成の世界

全体を単一の論理で展開しないというのが坂本一成に対する評価であるくらいの認識しかなく、書籍や作品集間もちろん具体的な作品やテキストを読み込んだのも今回が初めてだと思う。

 

デビュー作の「散田の家」ですでに「白の家」からの強い影響を受けるなど、直接の師である篠原一男をどう受け取るめるかが坂本建築の出発点であるように思われる。ここでは入れ子の構造という形式があるのだけれど、青木淳のテキストにあるように坂本は形式を表すことはしない。むしろ注意深く形式を消去しようとしている。

「F」では屋根と床がバラバラに存在していてそれらの関係性が主題となっている?形式を消去することから脱しているような、やっぱり形式は残っているような。

共同住宅や学校、海外での実施プロジェクトとなると、規模や文化・言語的な壁のせいか再びヴォールトなどの強い形式が用いられつつ、やはりそれらがなるべく消去されている。

 

大きな形式なしでそれなりの規模のものや不特定多数に向けた建築を作ろうとすると、なかなか苦労するみたい。

 

(8時間)

新建築2020年05月号

先日、4月6日になされた緊急事態宣言は5月末まで延長されることが決まった。3密は避けなければならないが様々な活動の全てをストップする訳にもいかず、緊急事態宣言直後の4月半ばに行われた緊急アンケートによると、大半の事務所や大学がテレワーク等により何とか活動を継続できないかと試みている。3密を避けた行動の徹底による感染拡大の抑制は一定成功しているようで、感染者数は4月11日に記録した743人をピークに、5月10日の感染者数は65人と1/10以下にまで減っている。

とは言え様々な活動の自粛による経済的・精神的なダメージが大きくなりつつことの影響が無視できなくなり始めており、特定警戒都道府県に該当しない自治体では自粛要請を解除する動きも見られるようになってきた。

5月7日にレムデシビルが承認されるなどワクチンや特効薬の開発も進められているが、直ちに有効な手段となる保証はなく、今の所は以前の日常が戻ってくる気配はなさそうだ。おそらく当面の間は、刻々と変わる状況に合わせて人間どうしの切断と接続の方法を調整しながら何とか対応するしかなさそうである。

 

京都市美術館は新たに掘られたスロープが特徴であるが、スロープの造成による広場と建物の関係の維持、東西の軸性の強調、室外機で埋め尽くされた広場の屋内化と再整備、地上に持ち上げられ仕上げが本館と微妙にズラされた収蔵棟など、目の前の課題を一つずつクリアして事後的に全体像が明らかになっているらしい。おそらく現場で細かなバランス調整が繰り返されたのだろう。独立した複数のレイヤーを重ねるキュビズムのコラージュという操作によって開かれた「切断」の世界は、コルビジェの作品を通して建築の文脈に位置づけた「虚と実の透明性」やブルーノ・タウトヴェンチューリの「建築の多様性と対立性」に見られ、デコン建築に行き着く。青木はそう言ったバラバラなものがバラバラにあることの先の世界として、切断と接続の同居を試みている。具体的には、レイヤーを継ぎ目なく重ねようとしている。切断しつつ接続させること。そのために、設計作業は過去のレイヤーを紐解くことと、限りなく存在が薄いレイヤーを重ねることに注力されている。とは言うものの大掛かりに手が加えられていることは事実であり、その胆力に脱帽。

建築物の文脈を探り当てて未来に向けてそっと新たな文脈を重ねる行為は弘前れんが倉庫美術館の「延築」にも通じる。BONUS TRACKもある意味では連続的な改修が目指されている。KURKKU FIELDSは敷地そのものを作るようなプロジェクトで、ライフワークとして継続的に関わっていくような気がする。

 GREEN SPRINGSは地上階の駐車場を覆うように設けた人工地盤を緑で覆い、周囲を複合施設で囲む。小杉湯となりは銭湯コミュニティを拡張して地域のサードプレイスになることを目指している。十番コアビルⅡはガラスの奥にコンクリートの天井が眼中に飛び込んでくる。さらっとコアからのキャンチレバーになっており、内から道路を見たアングルではソリッドな感じがする。