建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

住宅特集2306号/内と外の親密な関係:

「内と外の親密な関係ー土間・テラス・光庭」という見慣れないタイトル。いつもは土間とかテラスとか庭がテーマになっていた。これらを3つまとめて副題にするのは初見じゃなかろうか。

 

佐藤邸|西沢立衛建築設計事務所ミサワホーム

大企業とアトリエの協業。お互いに単独ではやらないであろう事をやっている。逆説的に「この建築家/会社は普通ならこうする」というポリシーが社会に浸透しているという事だ。

小川邸|北澤伸浩建築設計事務所

構造と構成が明快で清々しい。バルコニーと手すりの仕上げや収まりから狂気と気遣いが伝わる。

都立大学の家|青木弘司

店舗は内装別途だし住宅は機能を詰め込むだけで精一杯である事を逆手に取って、採光と気積を確保するための小屋裏にフォーカスしている。

大崎の家|武田清明建築設計事務所

ダブルスキンが空気の循環をもたらすの事は想像できるが、温熱環境がどこまで快適かがイマイチ分からない。曲面にする必然性にも乏しい気がして、やや表現主義的に感じる。

路地の反転|富永大毅+藤間弥恵

母屋との接続部を半屋外(路地テラス)とすることで路地を建物の一部のように引き込みつつ風の抜けを作り、南側の減築による日当たりの良い路地裏テラス、申請不要・防火性能も考慮した軒裏、撤去した柱の代替となり木材のサプライチェーンに寄与する消費垂直壁など、作者のテーマがよく現れていると思う。

「いえ」と「まち」 集合住宅の論理

著者の鈴木は、建築計画学を創設者した吉武泰水の下で51C型の開発にも従事した建築家であり、東大で研究室を主催した研究者であり、神戸芸工大の設立委員と学長を務めた教育者でもある。吉武が東大を退官した翌年の73年に(おそらく研究室を引き継ぐ形で)着任し、同年に本書の元になったハウジング・スタディの共同研究を開始している。その10年後には本書が出版されている。つまり、本書は鈴木が研究者として最も精力的に活動した時期の記録である。本書が出版されてから4年後の88年には退官して、設立委員だった神戸芸工大で着任している事から、最前線の研究者としての自分にケリを付ける意味合いもあったのかも知れない。同時に、本書はおそらく吉武泰水と鈴木による建築計画学(における集合住宅の分野)の成果を、体系化し、後世に伝える目的があったのだと思う。

「いえ」と「まち」―住居集合の論理 (SD選書 (190)) (SD選書 190)

それだけなら論文集でも良さそうだが、わざわざ住宅論としたのは、鈴木なりのあるべき住宅像や思想のようなものを伝えたかったからだろう。具体的には以下3点である。

  1. 時間的変化の中で生活と住居を捉えること
  2. 一般性の中に個別性を尊重すること
  3. 個と集合を関係づけ統合すること

自分が初めて鈴木の考えに触れたのは、院生時代手に《五一C白書ー私の建築系学戦後史》を読んだ時だと思う。上記の3点の詳細な検討の経緯が伺え、自分が考えている事は数十年も前に考え尽くされていたことに愕然とした。

同時に、これらは現代の日本で建築をつくる上でも欠かせない課題の一つだと思う。

 

装飾と犯罪

装飾を施す行為は文化的に劣った行為であると述べるなど、装飾が不要な理由についての論理的な説明はほとんどなく、趣味や空間を無理やり正当化しているだけのように読める部分が大半だった。

ほぼ唯一の論理的な部分は、装飾はリソースの無駄遣い(モノ自体ではなく装飾にリースが費やされるし、そうして生産された装飾が流行り廃りを生んでモノの消費サイクルを早めてしまう)である、という主張ぐらい。

結局、装飾が必要か不要かは個人の好みだし、個人の好みは時代の流行りや空気による。

 

私は高貴な方々にこの話を説いているのである。(略)カフィル族の人達やペルシャの人達、それにスロヴァキアの女達がやる装飾を、そして私の靴職人がやる装飾を私は我慢しよう。

などと公言するあたりは時代(と本人の過激さ)を感じる。

新建築2022年4月号

学部生の頃に参加した国際ワークショップで、今は亡き小川広次さんが「時空を越える建築」というテーマを出された。みんなでうんうん唸った所でテーマの真意は分からずじまいだったけれど、今月号はこのテーマに応えるような作品が多い。

 

パリ政治学院キャンパスはフランスの歴史を繋ぐ事ために、時間も空間も別々のところにいる建築家が協業している。築200年の修道院(途中で国有の武器庫)を校舎にコンバージョンしたもので、既存の保存改修から転用の内装、新築部分をそれぞれの建築家が担当している。色々な時代の色々な使われ方を、色々な人たちが考えている、その蓄積がある。ザ・アル・サーニ・コレクションはパリ中心地のコンコルド広場の正面に位置するオテル・ドゥ・ラ・マリンが美術館にコンバージョンされたもの。展示室を暗闇にすることで時間と空間を忘れさせ、古代から現在までの時間を繋ぐことを試みている。同時に床の御影石は既存のフローリングの貼り方を踏襲し、微かに既存を継承している。

寧波スマートシティセンター鯤鵬館はどこまでが敷地なのか分からないぐらいに自然に溶け込む。一方でOAK BLD Ⅱは都市の楔となるような圧巻の造形。街の結節点となる交差点だからこそのやり方。

黒田泰蔵ギャラリーはRC造のようなプラン、屋根は鉄骨造、仕上げと主な構造は木という不思議な建築。施主の黒田さんは自分の死期が近いことを悟ってギャラリーを作ろうと考えたのだろうか。そういう時に設計を依頼される建築家になりたい。NAGAREYAMA おおたかの森 GARDENS アゼリアテラスは躯体と外皮をアトリエで設計している。良くれば分かるぐらいのズレを柱とバルコニー

にもたらしている。

クライアントの100周年記念として計画された松崎幼稚園遊戯室棟は、残した既存を覆うヴォリュームを、敷地内外の関係まで考慮して計画している。新設した架構や外皮と、残した軸組との関係についても言及があるとより欲しかった。春日台センターセンターは公的制度からこぼれ落ちる人をも取り込むために、7つの機能を配置した3棟に分けることで軸を通し、大屋根はそれらを取りまとめるとともに庇が延びて軒下を作る。普通なら庇と路地と面積の何かを諦めるところ。途方もない労力をかけて企画・構想がなされているが、その費用は誰がどこから捻出しているのだろう。法林寺本堂の設計者である古森さんは、外壁に囲われた天井グリッドから自然光を拡散して取り入れたり重力換気を行う試みを何度か実践されている。今回は同様の作り方をされた本堂を、下屋が取り囲む構成になっていて、2つの空間の対称性が特徴的。一宮聖光教会は既存の要素を継承しつつ視認性と安全性を高める計画。幼稚園、福祉施設、寺院と言えば、かつては閉鎖的に管理されてきた気がするのだけれど、どれもまちに開こうとしている。

サ高住・ポータラカ+デザインサービス・カノンは施設ではない、地域医療の拠点を作りたいという医師の思いに答えた作品。配置、ボリュームの形状、プランとも意図が明確。デイサービスがスーパー銭湯のような雰囲気に仕上がっているのも良い。新富士ホスピス|いまここ|終末医療の施設でもあり終の棲家でもある。中廊下型のプランを少し変形させ仕上げを工夫することで、施設感が和らぎ住宅のような雰囲気に仕上がっている。

愛媛県歯科医師会館はボリューム配置、プログラム、構造計画の統合が可視化されているとより良かった。慈恵大学西新橋キャンパス再整備計画、近畿大学E館(KDIX)、熊本保健科学大学 新レストランは規模が大きくなればなるほど吹き抜けとか間接照明のような常套手段を散りばめてシークエンスを作らざるを得ない事を教えてくれる。

住宅特集2022年4月号/リノベーションの自由

構造種別と予算によって掛けられる手数と現れ方が全く異なるのがリノベーションの特徴だと思う。掲載されている作品の多くは、限られた予算で良好な住環境を獲得するために、消去法としてリノベーションが選択されている。内装だけをいじっている木造住宅は特にその傾向が顕著である。そんなものは建築ではないという空気感は数年前から徐々に無くなってきて、むしろ建築のいちジャンルになりつつある。リノベーションは芸術であるという宣言はその事をよく表している。

論考と同時に掲載された母の家はまだ元気な母親が余生というには少しアクティブな人生を過ごすための改修工事に、篠原スクール、ソフトの運営、都市への興味、後期高齢者になりつつある団塊世代の生活の場、過去の建築家による母の家など様々な文脈に接続することが試みられている。ロードサイド・ロッジアは住宅らしくないプロポーションや部材のメンバーからなる鉄骨の構造を軽やかな内外装が取り巻き、ロッジアの存在が建物をより一層軽やかにしている。既存の架構が最もうまく活かされていると感じられた。論考ものを手放し生きることと向き合うは共感を得る人も多いと思う。

これら2つの作品は人・家の老い方といかに向き合うかをテーマにした一方で、大半を占める他の作品はこれから人生の充実期を迎える子育て世帯が建主である。彼らの多くはアートや建築に携わる自営業者で、物理的にも社会的にも世の中の片隅で細々と生きるような人たちが多い感じがした。構造や下地や小口が露わになっている状況が住まい手に受け入れられるのか疑問に思う一方で、かつて都市住宅で展開された、コンクリ表しの上にベニヤという手法が今では世間に馴染んだような事が起こる気もする。東京下町の長屋を改修した路地の回廊は、3次元的に展開する線材は、色や形から様々な時期に設置された事が、また根太や貫の跡から複数回の組み替えがなされた事が、直観される。このことが、架構の物理的・理念的な柔らかさを感じさせる。時間を経た木の架構が不思議と身体に馴染む気がするのは、多分このせいだと思う。手入れをしながら長く使い続ける日本家屋や日本人のしなやかさがあるという編集者の視点を思い出す。逆に茗荷谷の舎に見られるコンクリートの表面や切断面、階段を解体した後に出てきた鉄筋などのラフな仕上げは、設計者夫婦の自宅兼アトリエじゃないと受け入れられないだろう。倉庫を住宅に改修した浅草Baseは力強いフレームが展開しており転用ならではの住宅になっている。建て込んだ立地である事から開口は新設されたトップライトだけなのも効いている。

予算や法規、構造的な要因がある場合はいよいよ扱う範囲は内装だけに限られる。となりはランデヴーは、既存サッシの内側に合板をくり抜いてポリカを嵌めただけの断熱サッシをつける事で、単なる断熱改修だったものに「秘密」を纏わせている。「秘密」の効果や目的は定まっていないことがこのプロジェクトの本質のように思える。ハウス/ミルグラフは、枠組み工法によるHM住宅の認定が無効にならない範囲内でしか弄れないという制約の中で、ささやかで切実な設えの変更にまとを絞る。構造をいじれないためプランと仕上げが主題になりがちなマンションで、モリスハウスは仕上げに狙いを定め、様々な市場と価格相場の部品を混在させている。部品を4つに分類して標準化するアイディアは面白いけれど、そもそもこの手立てが有効なのは施主がアンティークの家具を持っていたからだという気もする。

予算が本当に限られている場合は自主施工も珍しくない。Sankyo Dayo Houseは分厚いファサードを挿入することで外壁の更新を試みる。これを設計者の自主施工でやったのは凄いが、ゴンダンチも自主施工である。常識を逸した低予算で住まいを確保する術としてのリノベーションが掲載されているのを見る度に、建築家は職域が減り続け社会の隅に追いやられているような気分になっていた。けれど最近はデザインと施工を民主化する先鋒としての役割を担うような人もいるかも知れないと考えるようになってきた。Sankyo Dayo Houseは分厚いファサードを挿入することで外壁の更新を試みる。これを設計者の自主施工でやったのは凄いが、ゴンダンチも自主施工である。常識を逸した低予算で住まいを確保する術としてのリノベーションが掲載されているのを見る度に、建築家は職域が減り続け社会の隅に追いやられているような気分になっていた。けれど最近はデザインと施工を民主化する先鋒としての役割を担うような人もいるかも知れないと考えるようになってきた。

2/5は路地と家を連続的に扱おうとしている。緩やかな一体感があり、2戸を1戸にして使う自由さがある。Row House in Nishinotorinは豊富な文脈と情報の中に抽象性の高い要素を挿入する。土蔵と補う増築はその名の通りの作品。単に面積を増やすだけでなく採光を確保したり空気の循環を促す装置としての増築。光のあみの家はエキスパンドメタルの庇と、ドットプリントがなされたアクリル天井によって光を調整した住宅。東寺の住居はリノベーションの表現の幅を広げるとあるが、銅板の吹き抜けは新築でも作れるし、リノベーションだからこその意味があるとも考えにくい。蓮華蔵町の長屋は水平力の伝達経路を慎重に検討しつつ使用済の型枠を使ってRCコアを既存に馴染ませている。いろえのいえは外壁の屋内側の仕上げを合板とし、窓枠を兼ねた棚と同じ仕上げにした事で、内外の距離感が縮まっている。カラフルな壁やカーテン、中に置かれているモノの明度が整っているのも一役買っている。

 

 

 

 

 

 

住宅特集2022年2月号/大地と繋がる家 環境と連続する平家の思考

定期的に組まれる平家の特集。

 

House in Los Vilosはチリの荒々しい自然と対峙する事で日本的なものが見えてくる。ヴォールトを自然に合わせて軟化させる態度は日本的。孫弟子によるPergolaも自然に合わせて建築が3次元的に変化するが、前者がヴォールトという古典的な言語を使っている一方で後者は小さな部材の集合で全体を作ろうとしているように思われる。

古典的な言語という意味ではホームベースはホームベース型と方行の建築である。論考では中世の巨匠と自作を関連づけて語ろうとしているけれど関連があまり読み取れなかった。

岬の家は水回りなどを収めつつ配置計画を変える増築。軒と高窓。周囲によりよく向き合う建築になっている。

西萩の平屋は原木から大工が削った部材が表しになっていることで何となく手仕事の雰囲気が見てとれ、深い軒が何となく内外を緩やかに連続的なものにする、ということなのだろうか。

A Townhouseは「道」と「室」と「庭」で外部と積極的に繋がろうというものなのだろうけれど、繋がり方が誌面からは読み取れなかった。

指扇の家は都市化すると建築家が予測する郊外におけるオープンプランの建築。当時と現代、ロスと東京の違いは何だろう。

関ヶ原の家はRC造の躯体がゴツいけれど屋内外の天井や庇が一体になった屋根スラブやレベル差が付いた床によって内外が連続的に感じられる。

バウンダリは円環状のプランにより各室が中庭と道路側に両方に面する状態になっている?作者はモノの多さによって建築の存在感が弱められる事を危惧していたようだけれど、十分に存在感はあるように思えた。

米倉の家は伝統的な構造や仕上げを使っているもののプランは現代的な部分も。いずれは現代の要素も古さを帯びるようになるだろうからそれを将来どう使うか参考になるかも。

空蝉の家は時々出てくるハニカム状の屋根/天井。

K-VILLAは徹底的にモダン。もう100年も前に生まれた美学が未だ健在なのだと再認識。

紀伊の廻楼は沈みゆく夕日の眺めが良さそう。それを獲得するために回廊を作るとは。

足利市の住宅はやや幾何学的に過ぎるというか、外構に予算を投じた方が周囲と溶け込めたように思う。

和邇のコート・ハウスYouTubeか何かで作者の解説を聴いたことがあるが、庭のようでもあり犬と使えるもう一つの部屋のようでもあル。

 

新建築2021年7月号

ブルス・ドゥ・コメスはプンタ・デ・ラ・ドゥガーナのように入れ子の構成を作る事で新旧を対比させている。歴史的厚みをもった既存建築に、分厚いコンクリート壁をぶつけている。この壁は近代に対する信頼・憧憬にも見える。歴史的建造物に正面からぶつかる勇気の素。相当な気概をもって挑んでいるからの緊張感が感じられる。と思う。実際やるのは相当な胆力がいるだろう。

一方で京都鳩居堂は新築だけれどプロポーションや素材などで近代的なものと歴史的なものがそれぞれ使われている。8月号の月評に新古典主義的と書いてあってなるほどと膝を打つ。そう思えば本来の意味での新古典主義建築は、木で建てていたものを石で建てるようになり、今度はそれを鉄やコンクリートで作るようになったものだったのかと当たり前のことに気づくなど。論考の「ノスタルジー=その共同体が持つ時間的な広がりに対するイメージ」

 

実物を見に行ったが内藤建築は良い意味で同じ空気感を纏っている。スチール、杉ルーバー、低い軒先、シャープなプロポーションなど共通点があることにやっと気づいた。安藤建築のように一目で分かる個性も良いが、内藤建築のような滲み出てくるものもいいのは、論考で書いている「ノスタルジー=その共同体が持つ時間的な広がりに対するイメージ」を可視化/想起させるからなのではなかろうか。

マルホンまきあーとテラスは家型の連続によって劇場というナカミの表象を回避しつつ内部のプロポーションを変化させている。藤本建築はさらに弱い建築だと思う(二等になった青森県立美術館コンペでも『僕は弱い建築を作りたいのです』って確か言ってたしね)。

 

安藤建築の力強さ、内藤建築のノスタルジー、藤本建築の形のない形。安藤さんは徹底して近代的な手つきを用いているし、その事は古典建築と対比させられる事でより一層明確に現れている。それに比べると内藤さんはモダニズムに疑念のようなものを持っている世代だからか、周囲との関係も建築単体の中でも近現代的なものと歴史的なものが混合している。藤本さんは安藤さんよりだいぶ内藤さんより明確に近代以降を志向しているが、モチーフは家形という歴史的なものだし力強さのない力強さが目指されている感じがする。

 

熊野東防災交流センターは外壁のせいか、プロポーザルの魅力的な提案書に比べてのっぺりしている感じがするが、こういった建物が公共にできることはよても良いことだと思う。