複製技術時代の芸術/ヴァルター・ベンヤミン 読書メモ
写真をはじめとする複製技術の発達によって、「いま、ここ」にしかないことによるオリジナルのアウラが消滅した。
原始的な芸術作品は儀式の道具として誕生した。それらは一品物で、他に似たようなものを作ってもあくまでコピーあるいはレプリカである。だからオリジナルはそれだけが持つ有り難みのようなものを纏う。これをベンヤミンは「アウラ」と呼び、近代に写真をはじめとする複製技術が発達したことでオリジナルの大量生産が可能になり、「アウラ」が消滅したことを指摘した。*1
さらにベンヤミンによれば、複製技術の発達により芸術が「アウラ」を失ったことで、芸術の価値は礼拝的なものから展示的なものにシフトし、芸術は芸術としての自律性も失った。言い換えれば、芸術は魔術の道具から鑑賞の対象になった。*2
そうすると、今度は芸術を「正しく」鑑賞する必要性が生じる。ピカソを正しく理解するにはキュビズムの歴史的背景の知識や精神の集中が前提となる。
一方で映画はピカソと違って精神の集中や教養のいらない「緩慢な気晴らし」だし、スポーツ観戦みたいに誰もが自分ごとのように興奮するし、観客個人の反応を本来その結果であるはずの集団の反応によってコントロールできるから、大衆の動員にもってこいである。
ファシズムは所有関係*3をそのままにしてプロレタリア大衆を組織しようとする。*4政治的・技術的に、戦争だけが所有関係に関係なく大衆を動員できる。生産力が正しく使われないと戦争に充てられる。技術によって変化した人間の知覚を芸術的に満足させるために、戦争に期待するこれは「芸術のための技術」の完成である。