建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

新建築2020年10月号

今月号の主題は時が作る環境という論壇のテーマが示しているように、建築に時間軸を導入することである。近代建築には時間軸がないとか、竣工時が最も美しいことが欠点であるといった批評はこれまで何度も目にしてきた。日本の近代建築における時間軸を敢えて挙げるなら、減価償却の耐用年数だろう。建物は竣工時から国税庁が決めた年月をかけて償却されるという考えであり、大半のローンはこの期間の中で返済することが求められる。だから、建物は最低でも耐用年数分の物理的な寿命が望まれるし、耐用年数が過ぎて減価償却が完了したらできるだけ投資せずに利用するのが基本的には経済的に合理的であるという図式が大半の建物に当てはまる。さらに、この図式により建物は一定期間ごとに建て替え続けることにより経済を活性化させる強精剤の役割を担わされている。そういった前提に立つ限り、単一の建築が担うことのできる時間はせいぜい半世紀くらいが限界となる。今回の掲載作品はどれも時間と共に環境を作る試みがなされているけれど、時間の射程では数十年に止まっている気がした。人間なんてせいぜい自分が生きている間ぐらいの事しか考えられないのだから、数十年先のことを考えつつ次の世代がそれを引き継ぐことが大切なのかも知れない。

アクロス福岡に初めて触れた記憶は大学1、2年生の頃だったと思うが、ひな壇状の屋上緑化は建築に対する知識も関心もほとんど一般人と同程度だった当時の自分にも何かしら訴えかけるものがあった。大学院生になってからエミリオ・アンバースという建築家による作品であることを知り、それから10年経った今また新しい情報を学んでいる。この作品があらゆる人に訴えかける建築の一つになった理由のひとつは、考え抜くという姿勢が時空間的に様々なスケールで徹底されているからではなかろうか。他の都市に比べて少ない公園の面積の増加、敷地と周辺のポテンシャルと福岡都市圏におけるポジショニングに対する構想の延長にひな壇状の屋上緑化がある。数十年を掛けて建物、敷地、都市を育てるという意志の現れに当時の僕は触れたのではないかと今になって思う。

TOKYO MIDORI LABO.浜町LAB.およびT-HOUSE New Balanceは地元不動産会社による日本橋の連続的なミニ開発である。植物と一体となった屋外スペースを展開するTOKYO MIDORI LAB.、o/hが寄生するようにリノベされた浜町LAB.、インテリアのようで内装の下地・構造のような既存軸組を持つT-HOUSE New Balanceのそれぞれに建築やテナントとが一体で都市を作ろうとする事業者の意思がある。その意思には賛成するが、建物の使い手の意向は数年〜十数年ぐらいか、長くても四半世紀ぐらいであることが多いと思われる。一方で建築の寿命は少なくともその数倍に及ぶことが前提にされるべきであろうから、(建築の寿命に比べて)切的な使い手の意向に従順になりすぎるのは首をかしげたくなる。とは言っても資本主義に基づく経済的な側面が建築行為の主な動機である以上(そして動機でないとしても大きく影響する要因である以上)、テナント の意向が大きく影響するのは構造的に避けられない。そのテナント が視野に入れているのは比較的短い期間についてであり(コロナ禍により多くの事業が廃業の危機を迎えていることがその査証だ)、そのことが建物の寿命に大きく影響している気がする。数世紀に及ぶ長寿企業の多くが日本にあると同時に日本の建築物の寿命が比較的短いという事実とは矛盾する気もするけれども。これが都市を育てる建築だとすれば軽井沢風越学園は人を育てる建築である。遠くにそびえる浅間山を中心に据えたことで建物自身の中に中心が無くなっている。そのことがピラミッド型の人の繋がり方をもたらしているように思われる。浅間山という、建築にとっても組織にとっても外部であり雄大な存在に依って立つ事で、児童が主体的に学ぶ環境が獲得されているように思われる。広野町こども園東日本大震災から逃れて避難してきた子ども達を受け入れるという地域の意思、海と山という自然に寄り添于と同時に他の建物との連続的な関係を作るという建築家の姿勢などが上記の作品と共通するように思われる。いずれの作品も、都市の構造の中での当該敷地や建物のポテンシャルや役割を見つめていることが、長期的な視野に立つ姿勢をもたらしているように思われる。また、守口市立図書館のような平成期の建物の改修はこれから頻発するだろう。バブル期の贅沢な仕上げ、建築確認が民間に開放されたものの驚異的な検査りつの低さとなっているH10年頃などの建物が次の課題だ。躯体の性能は旧耐震の建物に比べて格段に良いだろうから、回収し続けながらより長期的な使用を可能にする下地としての建築が求められるようになろう。

東京ミズマチ、すみだリバーウォーク浅草寺からスカイツリーへと至る歩行者軸を強化するという構想に共感させられたり、河川上の使用許可を取得した上で既存の橋梁に付加させることで遊歩道を整備すると言った構想を実現するためのスキームはなるほどと感心させられた。設計やデザインは安田不動産のように建築家に依頼した方が良い空間になったように思う。僕たちとしては、構想の段階から相談されるような存在を目指して頑張らねばなるまい。同じく鉄道関連の作品であるJR横浜タワー・JR横浜鶴屋町ビルはホーム側の「裏面」にデッキを設けている。

大井町駅前公衆便所をはじめとした一連の公衆トイレは、若手向けのアイディアコンペで勝ち残りそうな案が実現しており、自由な発想のもとで作られた建物は役に立つのだと勇気づけられる。

foresttaカランころは一見すると木造かと思ったが実は樹木のような鉄骨に貼られた杉板である。面白いのは、ジョンソン・ワックス本社ビルに代表される地上の点が上にいくにつれて四方八方に広がっていく構造のように見えると同時に、アーチが交差するゴシック型の空間のようにも見える、空間の両義性が感じられることだと思う。

桃沢野外活動センター石山公園の屋根の共に山中に建てられつつも対照的な姿、WORK x action Site 軽井沢mother's+が似たような環境の中で自らのポジショニングを図っている点なども面白かった。

 

 

Otemachi One

新建築2020年9月

 

横浜市役所槇文彦の作家性とDB方式の集団性・匿名性が同居している。初期の頃から計画や表現の手法が一貫していること、それが長く通用し続けることに勇気をもらうとともに自分も内にあるイメージを実現させ続けたいと思う。こども本の森 中之島アーバンエッグ/地層空間がかたちを変えて実現したものだと思える。他の作品も含めて原画や原図を初めて見た時に安藤さんの熱量に圧倒された。これぐらい熱量を持って命がけで挑むと、数十年後に実現するチャンスに巡り合えるのかも知れない。何を生み出すのか、そのために自分のリソースを如何にぶつけるのか、再考しよう。

同じ敷地内に建てられた国立アイヌ民族博物館国立民族共生公園 体験交流ホールはともにアイヌの文化を伝える施設であるが、そもそもアイヌは日本的なものなのかどうかを考えさせられるようなものがあるとより良い気がする。そうでないと大英博物館的なショーケースの域を出られないのではないだろうか。体良く展示場を作り上げたという印象は東日本大震災原子力災害伝承館にも共通する。結局、民族的多様性や脱原発といった政治的な正しさをしか拠り所とできないのだろうか。

新風館THE HIRAMATSUザ・ホテル青龍は京都で3つの歴史的建造物を取得して保存・再生しつつ経済や地区発展に寄与するという、大資本かつリテラシーの高い施主だからこそ実現できたプロジェクトである。新風館に関する隈さんのデザインは「点・線・面」で語ったように線で構成しているものであるが、ストリートという言葉を介して古都京都の歴史やジェイコブズといったコンテクストに結びつける手際は流石としか言いようがない。施主と建築家が大学同期というのもな〜。

新宿住友ビル RE-INOVATION PROJECTSOMPO美術館は西新宿の副都心における大規模事務所ビルの改修であるが、両者とも足元のレベルを改修しているのが特徴的である。前者は都市の足元に広場を作り、後者は美術を通じて都市と接続するという新築時の想いを数十年かけて実現、あるいは洗練させたものだと言えそう。

仮設パビリオンであるしらなみNISSAN  PAVILIONはともに円形平面をした膜構造である。前者はカテナリーの曲線と海上に浮かぶ小島のような外形が、白いカラーリングも相まってポエティック。

住宅特集2020年9月号 これからの間取り・キッチン

僕が学生だった2010年頃は間取りの時期だったように思う。競って目新しい空間形式を生み出そうという空気感が漂い、その空気をもっと濃いところで感じたいと思って僕は大学院への進学を期に上京した。それも2010年代になると陰りを潜め、かわりにフラグメンタルなリノベーションが誌面を賑わせるようになった。その傾向はここ数年で新築にも広がりつつあり、今ではフラグメンタルな表現で粒子化された皮と表しにされた構造体が標準装備のようになっている。乱暴を承知で「間取りを含めた様々な形式が抽象的な表現で競演したゼロ年代」から「間取りや構成よりも粒子化といった表層の表現に力点が置かれた10年代」へというまとめ方をしてみるならば、20年代は再び間取りの時代になるサイクルである。そして、今月号を読んで、これからの間取りの展開は従来の家族ではなかった他者を家に招き入れることによって引き起こされるのではないかという仮説が湧き上がってきた。というのも、今月号の作品は純粋に間取りだけを追求したというよりは、新しい生活様式を突き詰めた結果として今までにない間取りにたどり着いたという作品、特に住宅以外の用途を含み、血縁と婚姻を根拠にした家族ではない者(中には人間以外も)を住人として招き入れる作品群が多く見られたからである。さらにそれらのいくつかでは他者を呼び込むことで小商いや地域との相互補完が試みられており、住宅と職場や娯楽施設を往復する生活から自宅で様々なことをする暮らしへとシフトしている様子が伺える。ゾーニング法的でない生活様式が始まっているとも言えるかも知れない。

公衆浴場を兼ねる浸水公衆浴場は、戸建て住宅用の浴室と銭湯の中間くらいのスケールの浴室が地域の住民に開放されている。このように自宅の一部を地域のインフラとして開放する者が増えると、自宅の一部を相互にシェアし合うような共同体もあり得るような気がしてくる。こちらが銭湯ならば雑誌編集者の自宅である住居 No.23のパブリックリビングは図書館か。増築部分を残して新築部分を建て替えるという式年遷宮を思わせる住宅であるが、既存/新規の関係に着目すると、プライベートな既存とややパブリックな新規の間をスリット状の通り土間が横切り、プランも一新されている「切断された1階」、逆にプラン上も機能上も新旧がシームレスに連続している「接続された2階」と、異なる新旧の扱いが対照的である(1階は、見方によっては土間・玄関・パブリックリビングがシームレスにつながっているとも取れるように思える)。単管足場の仮設的な外装が将来的な改修を予感させてもいる。

神戸のアトリエ付き住戸はその名のとおりアトリエが併設されることで天井高の高い無柱空間が求められることで、間取りのみならず架構やヴォリュームが決定され、それらが隣地の教会というコンテクストへの参照にもなっている。屋内の長手方向への眺めがどことなく教会を思わせるのは意図的なのだろうか。Sabo Houseは虚の基壇に家型が鎮座している。これは既存の駐車場を活かして設けた地階に光を導くための形式である。サボテンという他者との共生を目指すことで、南側の大開口に吹き抜け状の階段を配置するという操作が加わることで、形式がさらにドライブしている。住宅地の中でレストランを併設した鈴木家は地上階のレストランが厨房を中心に庭も含めた回遊式の間取りが広がりを与えているだけでなく、天空率を活用するために住戸ヴォリュームがセットバックすることでレストランにトップライトが生じ、そこから曲面天井を伝って滑らかに光が注いでいる。外壁の仕上げが天井まで連続していることがさらに空間に広がりを与えている。宿泊業を営む家である岸家はゲストハウスのはなれと自宅兼客用ダイニングを兼ねる母屋の分棟形式という驚くべき構成である。1敷地2建物のようであるが2棟ともどうやって水回り3点セットを揃えているのか気になるが、2世帯住宅やシェアハウスとしても使えそうに見えてきて、1つの住宅で生活は完結しない方が良いようにつくづく思えてくる。これからは床が余るのだから、余剰の床を他者に開放する試みがあっても良いのかも知れない。同じく日常的にゲストを泊めることが想定された志摩の家はキッチンが3つもあるし空間の質もバーベキュー場みたいである。トリッキーなのは住職を分けつつもひとつの敷地内に計画した稲沢長堤の家で、この作品はがらんどうの空(くう)を取り込んでいる。家の中心に位置する間が効率的な住職の配置の結果であることに可能性を感じる。

おそらく新建築や住宅特集の創刊時から取り上げられ続けているのは、敷地の条件による間取りの進化ではなかろうか。ケーブルカーは間取りというより地形に沿って傾斜した屋根とスラブに目がいく。傾斜地に沿った空間構成の住宅は定期的に登場するが、この作品が特徴的な点は微地形に沿って少しづつ勾配を変えていることである。そことによりより直に地形を足の裏から感じることができるだけでなく、部屋の大きさが地面の勾配にリンクしている。泉の家は接道面の2つの出隅をテラス(1つは玄関を兼ねる)としたことで今までに見たことのない道路との関係が生まれている。間取りは外壁に対して軸を振ることで、隅のテラスに視線が向くようになっている。この手法が比較的敷地面積に余裕がある地方だから成り立つ一方で、都会の住宅地では善福寺の家のように狭小住宅で立体的な構成がテーマとなる。塔の家に比べて同じく5層(最上階は塔屋と屋上だが)、建築面積は一回り大きく、テラスや法面の存在により(住宅地であることも影響してか)比較的平面方向への伸びやかさに対する志向が強くなっている。傾斜地であることからRC造の基壇が設けられ、その上に木造の住戸が乗っかっていることから、「塔」の感じというより、基壇の上に鎮座する可愛い家型という感じがする。家型の玄関側の出隅と、その反対側の軒先がアール状に面取りされていることが、それを強調する。住宅地では、塔の家よりも基壇+家型がしっくりくるみたい。

今月号では例外的に純粋に住宅の機能しか持たない雑司ヶ谷 高橋邸はくらを参照した、RCの外壁を立ち上げただけの上棟時の写真に迫力を感じた。同じく北小金のいえは(当初予定していた)平家の建屋と敷地の面積バランスを考慮した結果の45度回転させた軸と太陽に向けた軸が交差して複雑な造形をもたらす。相続の結果生じた不思議な敷地に建つ五平柱の家は、間取りというより棟木から真っ二つにされたような断面形状(とそれに強く影響されたであろう間取り)がこの敷地ならではだと思う。

 

溜まっていた積ん読がやっと片付いてきた。

点・線・面、負ける建築/隈研吾

負ける建築 (岩波現代文庫)

点・線・面

隈さんの代表的な著書を3つ挙げるなら『点・線・面』、『負ける建築』、『10宅論』だろう。隈さん自身もきっとそういう意気込みで本書を書いたに違いない。『点・線・面』は装丁からして明らかに『負ける建築』が意識されているし、序文の冒頭から『負ける建築』が登場する。

共通しているのは様々な観点から自身を社会的・歴史的に位置付けようという試みがなされている点である。

『負ける建築』は近代を「大きさをマネージする時代」と捉え、大きさが忌避されるようになった時代の空気を描くとともに、「大きくならない」方法が必要になるだろうという予感を示している。

対して『点・線・面』では建築が「大きくならない」方法を書いている。具体的には建築を微分化することであり、石と瓦を点、木を線、幕を面に準えて自作を位置付けている。

大局的な視点ととことんマニアックを同居させること。それらを自分なりに通時的かつ共時的に記述すること。

 

(4時間+7時間)

新建築2020年7月

 

WITH HARAJUKUは性格の異なる地域同士を接続させようという意欲的な試みが目指されているものの、議論を呼ぶような挑戦は回避されているように思える。RCと木の端正なファサードが特にそれを感じさせる。日本人にとって重要な場所でそのような建築が量産されるように思われるのは、意思決定システムが民主化しているのに大衆がいつまでも市民に成長できていないことの現れなのかも知れない。なんだか最早そう言った状況を批判的・アイロニカルに表現してしまった方が良いのかも知れないとすら思えてくる。

そう言った状況では政治的な正しさや経済的合理性、リスクの少なさばかりが重視されるようになるだろう。その意味で環境にフォーカスする作品が多いのは肯ける。都立多摩図書館 東京都公文書館は書庫の温湿度環境を整えるために外壁を二重にしつつ、外壁間の空気層を設備置き場として有効に活用している。T-FIT HATCHOBORIはセンターコア型の平面におけるコアを煙突効果による換気ルートにしている。提案自体はうなずくが民主的な制度の中でリスクヘッジとポリコレ的な判断の帰結と言えばそれまでにも思えるのが悔しい。上勝町ゼロ・ウェイスト センターはもっと希望が持てる感じがして、リユースされたサッシを集積させたファサードや周囲の山並みと補色の赤色に塗装された外観が地域の人々の意識がひとつになっていることを感じさせる。また、端材を出さない丸太の切り出しによりダイナミックな架構が生じている。熊野の点と点とはひとつ一つが数百人レベルの小さな山村が主体の小さな改修工事であり、おそらくコミュニティの大半がプロジェクトの存在を知っているだろうし、一定割合以上のメンバーは関わっているかも知れない。また、1人の建築家がいくつかのコミュニティを相手に同規模の仕事をすることで、コミュニティ同士のつながりが発生しているようだ。新規プロジェクトのコアメンバーが前例の見学に出向いたり、それをもとに議論したりする状況が発生しているのだろう。コンテナ町家は収益を確保するための床を新設しつつ既存家屋を保存するために思い切ったことをしている。鉄骨造の架構の仮設生がより際立つとより良いと思う。

UNIQLO PARK 横浜ベイサイド店では売り上げを最大化できるインテリアが決まっているせいで建築家に提案は求められなかったのだろうか。もしくは表層を彩るスター建築家と深層を計画する建築士集団に分離発注されているのだろうか。UNIQLO TOKYOでは外壁やスラブを除去して構造フレームを屋外にまで展開させるとともに大きなボリュームをつくる行為、それから様々な仕上げによりヒューマンスケールに近づける行為がなされているが、そう言った「他者」を持ち込まないと1人の建築家が全てを設計することはできないのかも知れない(既存という「他者」が入っている時点で1人が全てを設計してはいないかも知れないが)。P.61のインタビューによるとユニクロ佐藤可士和と週一でブレストをしているそうだが、プラダのコンサルをしているOMAのように、何を作るかを一緒に考える存在にならないといけない気がする。佐賀城内エリアリノベーションは全体を一新するのではなく部分の改修を積み重ねる。ユニクロとは対照的に建築家がやるべきことを見つけていく作品。本覚寺の森もマスタープランを建築家が考えているが、建築家にしかできない提案が欲しい気もする。

住宅特集2020年8月号 特集 庭 人と自然を繋ぐもの

文明と自然の関わりは古今東西の重要なテーマであり続けているが、ほとんど全ての文明が脅威としての自然に対峙するか大自然の一部として溶け込むという戦略を取ってきた中で、日本は里山に代表されるような人工的な自然と共生するというユニークな感覚を磨いてきた。人と自然を繋ぐものという副題がそのことをよく表している。個人的に印象深い庭は龍安寺の石庭と慈照寺銀閣)の庭である。前者は矩形に囲われた抽象的なコモスが塀の先の山々と侵食しあうことで空の彼方まで一体になった感じがする。後者は歩くたびに目眩く変化する光景にある種の奥深さを感じた。どちらも人工的な自然を通して自然そのものと繋がったような気になれた、非常に豊かな経験をさせてくれた。

CO-VID19の世界的な感染拡大がまだまだ収まる気配を見せない中、ウィズコロナという新たな環境とどのように関わりあって住まうのか、誰も答えは見いだせていない。日本における住宅は、人間に取って恵みであると同時に脅威であるという日本の独特な自然観が脈々と受け継がれている。そのような感性を読み取ろうとすることが今後の僕たちの暮らし方を少しでも向上させるだろう。

 

切土と盛土により作られたVilla beside a Lakeは、地面と建築のあいだと題された論考でも述べられている通り、庭というよりは土木と建築の間のような住宅である。切土や盛土を敷地内だけで完結させようという意識が日本的である気がする。大地の家も同様に切土と盛土がなされているようだが、こちらは石と木の存在感がもの凄い。橋本の半納屋ではレベル差を持つ床が足から直に敷地を感じさせるデヴァイスのように働きそう。納屋に着想を得た簡素な架構や半屋外空間が印象的。同様に簡素な架構のササハウスは、佇まいの簡素さや家型断面を屋内外に分割する構成がヤナハウスを連想させる。前作と異なる点は法面を囲うように配置されたL字型の平面や2,100に抑えられた軒高であるが、単純かつ抽象的な平面形状なのに自然に溶け込めている。

蒲郡の住宅のような斜面住宅は三分一さんの北側斜面の家がはしりだろうが、この住宅は道路側に緑地を置いている部分が特徴である。

磐座の家は中村さんらしいオーソドックスなプランと丁寧な仕上げと植栽。nの家はこのサイズの中庭が必要なのか疑問に思う。PeacoQは扇型の敷地が持つ開放性を活かして、円弧状の接道部分に向けて居室を開くとともに、レベル差や植栽と二重外壁のレイヤーで上手く距離感を取っている。都市の風景は杉並区にしてはかなり広い敷地に角度を振って矩形の建物を配置しているので、4つの庭をそれぞれ写真で見てみたかった。建築家夫婦の自邸兼事務所である葉山の家は庭と中庭がいい。単なる建物と庭の関係に終わらず、中庭があることでダイニングやアトリエがそれぞれ庭と関係し、居室同士の関係も調整されている。パサージュ・ボタニックは北側接道の郊外住宅地で、街区にある全ての住宅が北側配置として南に庭を確保しているのに対して、T型のヴォリュームを敷地中央に配置し、そのヴォリュームの根元は大きな開口を持ちつつ両側を和洋の庭に挟まれている。この根元部分は和洋、男女のような二項対立を顕在化させるとも捉えられるし、視線の抜けによって内外が一体化して建物と庭の二項対立を曖昧にしているようにも取れる。太宰府の家は新設したはなれのリビングと庭、既存の庭の関係が良いものの、斜めの軸を導入した効果はいまいち分からなかった。谷戸の家は彫刻的に屹立する佇まいから居室と庭の関係が結べているのか一瞬疑問に思ったが、内観の写真を見ると矩形の部屋が放射状に接続されることで多方面に視線が抜けておりむしろ内外の関係が密になっている。

このように建物の配置で工夫する作品が多い中、神職の文庫は屋内を暗い色で統一することで屋外の緑が映えるとともに母屋の白い外壁や玉砂利の反射光を効果的に取り込み光と陰で自然と人間の接続を試みている。

 

 

住宅特集2020年7月号

House & Restaurant の計画を最初に見たのは数年前だった気がする.柱とか壁とかいった従来のエレメントが一切ないような,何もかもがドロドロとしたコンクリートで一体になっているような構造に不思議な感覚を覚えた.今回は実際に工事が進んでいる状況を見て,その洞窟のような内部に,ボタニカルガーデンのような,一見すると自然だけれど本当の自然では実現し得ない現れに人間の手の跡を感じた.前回このプロジェクトを見た時にもう一つ印象的だったのが「長く残る場所を作って欲しい」という趣旨の施主の言葉である.この躯体はその要望に応えてのものなのだろうが,ただ物理的な長寿命化を目指すという単なる技術論ではなく,現在を相対的に眺めることで過去と未来の無限の情報の中に構造を見出すことが目指されていると論考の古さの戦略で述べられている.

ハウス・アークは予算上の制限から小さくせざるを得ない面積を小さくせざるを得ない事を逆手にとって豊かな庭を取る.こういう時は普通は敷地の片側に建物を寄せて反対側に庭を取る事をまずは考えそうなものだけれど,ここでは建物を中央に置いて周りをぐるっと庭で囲んだ上で塀を作らない事で敷地境界がキャンセルされている.コストを抑えつつ大きな気積を確保するものであろうヴォールト状の加工が軸性を生み,ガラス張りにされた短辺方向の先にはテラスや樹木が配置される事で軸は先へ先へと伸びていく.一方で長辺方向には玄関や引き戸,出窓風に設えられた畳など身体に近い位置で開口が開けられている.この対比が気持ち良い.隣地に建設予定のハハ・ハウスと連帯してどのようにこの敷地をアップデートして行くか楽しみになる.

扇ヶ谷の家は外皮性能への注力や配置計画により環境性能を確保している.経験的に知っている豊かな住まい方と近年の試行錯誤が交錯して生まれる現れが文化的厚みを増すことに繋がるのかも知れないと思われる.ニセコの家は大工とは言え施主によるセルフビルドという力技の作品であるが,この手の作品によくあるパワフルな部分だけでなく,均質な加工の中に建つ象徴的な丸太柱やブリコラージュ的な外観などどこか抽象的な感じもする.建築家なしの建築のような建築と言えば良いのか.取口さん家はあまりにも素っ気ない佇まいと内装が未来への振れ幅を担保している自由さが清々しい.真壁にされた内装も効いている.階段の家は敷地で突き当たる道路がこの住宅を通じて空に吸い込まれていくことや,この階段がだんだん梯子状になっているのが面白いと思った.灘の家は強い形式を持っているが中の写真を見ると自分がどこにいるか分からなそうで面白い.Silver Water Cabinはカラーリングが特徴的.東中野の家はスケール感や周囲を取り込む操作がとても上手い.こういう住宅を作ってみたいと思うが,設計者が中国出身の方だと知って驚いた.石神井の家もスケール感が良い.紅葉ヶ丘の家は単純な操作により自然の変化が感じられそう.支えの家は力強い構造的な形式が特徴的だから,特に外観ではRC造の壁と屋根及び木の床という構造をもっと表現しても良かったかも知れない.玉城の家2は魅力的な立面を成立させている階高の設定がものすごい.FKSはヴォリュームをずらして外部に抜ける視線が巧みである.