建築再生日記

建築を見たり読んだり聞いたりして、考えたことを記録するメモ帳

住宅特集21年4月号

日本は地震や台風などの自然災害とは切っても切れない関係にあるし、近代以前は数年ごとに大火に見舞われたりして定期的に破壊される家をつくり直してきた。和辻哲郎が<風土>の中で日本の夏は繁茂する雑草を抜き続けなければならない点を指摘したように、日本の自然は恵みを与えつつも常に手入れを必要とするし、時には圧倒的な力で全てを奪い去っていく。そういった気候条件が日本人の従順であり強かな性格を作っていると思う。

今月号の発売時は、新型コロナウィルス対策のための緊急事態宣言(2020年3月13日)から1年、東日本大震災の発生(2021年3月11日)から10年という象徴的なタイミング。311が来た時も、コロナが来た時も、建築や建築家はそれまでのあり方を自問自答せざるを得なかったと同時に、社会的にはゲージュツ的な建物を作るべくデザインをこねくりまわす人だと認識されている現実を突き付けられた気がする。

巻頭の特集のタイトルに使われている「災間」という言葉は、災害が頻発する日本での暮らしを的確に表現している。日本社会は災間を生きざるを得ないとすれば、復興やレジリエントな社会づくりという視点は不可欠であり、その点で建築家はなくてはならない存在であるはずだ。だから、311以降の10年間における建築家の取り組みを丁寧にまとめたこの特集は建築の設計をしている人はもちろん、そうでない人にこそ読まれて欲しいと思う。

副題は「家をつくりあげる力」というのは、住宅という、恵みも厳しさも与える環境の中で人間が生きる場所を作る営みの根源を改めて見直す、という事らしく、災間を生き抜くといった意味合いではなさそうだ。

 

HOUSE ICORは小川が下に流れる土手に建てられた建物で、地形の投稿線をなぞるようなひょろ長い蛇行したプランをしている。芯々1900という建物の奥行きの浅さは地形を直に感じさせそうだ。小川に向かって傾斜した屋根や1700に抑えられた軒先、ほとんど耐力壁のないプランによってその体験はさらに強烈なものになると思う。また、基礎の立ち上がりが内外の椅子になっていることで大地と一体になったような体験ができそうに思えたり、屋根勾配がそれぞれの空間に相応しいスケール感を与えていたり、雄大な自然に囲まれた場所ならではの建築であるように思われる。

ベトナムは1000年ぐらい中国の支配を受けてきた歴史があり、近代の欧州列強による植民地支配や米露の代理戦争の舞台となり、現代ではグローバル資本主義の影響でグリッドにビルが建ち並ぶエリアやビニルハウスが延々と続く元原生林などに分断されているらしい。同時にずっと続いて来たのが快適な場所を探す身体感覚。ダラットの家ベトナムにおける社会の分断と民族の伝統を表そうとしているみたいだ。

家族の灯台はなんとも抽象的な建築。ポリコレや施主要望を根拠にした作品が多くなった印象があったので珍しさを覚えつつ、ではこの抽象的な建築が社会の中でどんな意義を持つのだろうか。各階(部屋)はEVと屋外階段でしか行き来できないから、個室と思われる3階と4階は、その部屋を利用する人以外の人にとって、敷居をまたぐのは普通の家に比べてだいぶハードルが高いだろう。そのことが、個室や共用部としての性格はより強化されて、1つの家で一緒に営まれる暮らしというよりは、独立した個人の共同生活に近づくと思われる。

 

その他、時間がないので一言ずつ。地続きの床と浮床は傾斜地の土留めと基礎を兼ねたコンクリートに木質構造が乗っかるという、時々登場する形式。最下階のGLの上下を目線が行き来する体験は楽しそう。スラブの合理性が今ひとつ理解できない。MHOは2,250のグリッドに切妻屋根をかけて解放性を様々に展開。均質なグリッドの中をエレメントで操作する点は矩形の森と共通しているけれど、この作品はもっとガチャガチャしているのに抽象性を感じる。おそらく柱と梁のメンバーが揃えられているからか。三陸の家はタイトルと最初の見開きからして復興とセットである。ホールの軸線の強さは施主と建築家の意思の強さの表れか。小林の家は伸びやかなプランとゆったりとしたスケール。これだけ照明を暗くしても成立するのだな。石黒邸は750グリッドの必要性や合理性が分からない。明るい階段室は駐車スペースと庭のある方をガラス張りの階段室とすることで、明るさとプライバシーを確保している。畑の笠は十字型のプランと正方形の屋根が4つの庭をつくる。駒場町の家は家型が軸を振られて積層された吉村さんらしさがある。ばんざい弁当はプログラムと近隣の中学校から導かれた特殊なプラン。HO-HOUSEは前の世代のモダニズム的な雰囲気の豪邸。KT Houseはカーテンウォール。大高の家は8つの箱にランダムな傾斜の片流れ屋根。